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ssh1029 中耳炎と抗生物質と「みんな同じ」幻想(4) [三題噺]

<2017>
<初出2008>

 小6か中1くらいのころ、伯父宅にあった『科学パズル』なる本に、こんな問題が載ってました。

◆◆◆
 ある人が、次のような相談をしてきました。
 「私には、赤色と青色が反対に見えているような気がして仕方がありません。例えば郵便ポストは赤いのですが、私の目には、どうしても他の人のいう青色に映っているような気がするのです。しかし私がポストの絵をクレヨンで書くとします。すると私はポストと同じ色として自分の目に映っているクレヨン、すなわち赤色のクレヨンを選んで絵を描きます。私の目に青色に映っていたとしても、出来上がるポストの絵は赤く塗られるため、何の違いもおきません。また、私はポストの色を赤色、空の色を青色と教えられてきていますから、言葉の上でも私は他人とまったく同じで正常ということになってしまいます。
 果たして私の目に写っている赤色と青色は、本当に他の人たちの目に映っている赤色や青色とは違わないのでしょうか。」
 この人の言っていることを確認する方法はあるでしょうか?◆◆◆

 この問題、私には大変衝撃的なものでした。
 正解は「確認のしようがないし、する必要もない」というものでした。
 要するに、この人は社会生活上何の問題も起こさないのです。
 仮にこの人の目に本当に赤と青がまったく逆に写っていたとしても、何のトラブルもありません。

 しかし、これは裏返すと、私の目に映っている色と、他人の目に映っている色が、まったく同じという保証は、どこにもないということでもあります。
 私は中耳炎になると、あらゆる音が低く聞こえるようになってしまいます。
 機械の電子音、学校のチャイム、音楽、人の声、すべて低く聞こえます。音程でいうと、半音から四半音くらい、低く聞こえます。
 これ、本当に不快です。
 私には絶対音感というほどのものはありませんが、それでも聞き慣れた音が普段と違うかどうかくらいはすぐわかります。
 音楽なんか、気持ち悪くて聴けません。
 一番困るのは電話です。相手の声が低く聞こえるので、誰だかすぐにわからないのです。

 もちろん、世の中に流れている音はいつもとまったく同じです。低く聞こえているのは私だけ。
 しかし、その間、私にとって、世の中はいつもとまるで違う音で満ちています。

 もっとも、中耳炎は一時的なものですから、治れば音も元通りになります。
 しかし、もし、この中耳炎の時のような状況が、生まれつきのものだったとしたらどうでしょうか?
 私の耳に響く音は、他の人たちとは違う音であり、しかも冒頭の科学パズルのように、それを確かめる方法もない。ある人が「きれいな音ねえ」と言った音が、私の耳には別の音色で鳴っている。
 そんなことが起こるわけです。

 というよりも、今でさえ、それはあり得るわけです。中耳炎の治った私の耳に響いている音が、他の人の聴いている音とまったく同じという保証はどこにもありません。

 高校時代の国語の先生が、「他人の気持ちや痛みを100%そのまま分かることなんて不可能だ」と言いました。
 他人の感じる快感や痛みやその他の感覚は、その人にしか感じられないものです。想像することはできても、まったく同じように感じることは、例えば他人の感覚器を自分の脳に直結するような手術でも開発されない限り、理論的に不可能です。

 ましてや、人はその上に、一人一人まったく個別の経験を積んで成長していきます。
 仮にある音が複数の人々にまったく同じ音として響いたとしても、その受け止め方はさまざまです。
 クルマのエンジン音を快感と感じる人もいれば、許しがたい騒音としてしか感じられない人もいます。
 虫の声、鳥のさえずり、都会の雑踏・・・。快と受け止める人もいれば、不快という人もいます。

 人間の相互理解なんて、絶望的に困難なことだという気がします。
 少なくとも、同じ人間だから分かりあえるはずとか、日本人なら必ず○○が好きなはずとか、そういうのはまったくの幻想だと私は思います。

 相互理解なんて絶望的に困難。
 しょせん他人の痛みを100%わかることなんかできない。
 私にとって、これこそが、相互理解の出発点です。
 
 絶望的だから、必死で努力しないといけない。
 100%わかることなんてできないから、1%でもわかろうと必死で想像力を働かせる。
 そうすることで、ようやく、ほんの少しだけ他人と理解しあえる。

 ラブソングで頻繁に使われる「言葉はいらない」「言葉じゃない」というフレーズ。
 あれ、私は死ぬほどキライです。
 とんでもない。言葉にしなければ、何も伝わらないんです。
 「言葉じゃない」どころか、「言葉こそ」重大なんです。言葉を積み重ねるから、最後に無言で見つめあうことに意義が出るんです。
 
 もし「みんな同じ」であるなら、感覚は強力な武器になります。
 でも、感覚はアテになりません。「みんな同じ」なんて幻想です。 

 言葉は違います。
 言葉は、成長しながら学んだものです。
 みんなが後天的に学習して、みんなが共有するようになったものです。
 みんなが共有している最強のコミュニケーションの手段、それが言葉です。

 sshが「言葉による自己表現」を標榜しているのは、実は結構オオゲサな理由からなんです。
(このシリーズおしまい)
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