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ssh1045 仕事の定義 [志望理由・進路選択]

<2017>
<ssh329再録>

 「お前、やりたいことはないのか?」
 「ゲーム!」
 「アホ!そういう意味じゃないわ!」
 
 「やりたいことを探せ」と言われて苦悩している高校生の皆さんのために、久々の志望理由書ネタです。今回のテーマは、仕事の定義。
 仕事ったって、もちろんジュールだのNmだのワットだのの物理話じゃありません。職業のことです。労働といってもいいか。
 冒頭のやりとりは数年前の私と息子のやり取り(脚色あり)です。当時息子は小学生、まあこの程度でしょう。息子もマヌケですが、小学生相手に「やりたいこと」をマジに聞く私も相当にマヌケです。この親にしてこの子あり。
 
 しかし、息子の答えはなんでマヌケなんでしょうか?
 やりたいこと=ゲームというのは、いたって誠実な答えです。(ゲームというのはWiiとかPSPとかのゲーム機のゲームです、念のため。)
 誠実ですけど、彼は私の質問の意図がわからなかった。私が聞きたかったのは、もちろん「どんな仕事をやりたいのか?」です。
 でも、現代であれば、ゲーマーって立派な仕事ですよね。


  ゲーマーはゲームをするのが仕事です。
 一方、今は中3になった息子は相変わらず「やりたいこと=ゲーム」に勉強そっちのけで血道をあげています。
 ゲーマーのゲームと、息子のゲーム。行為そのものはどちらも同じです。画面を見てボタンやコントローラーをカチャカチャいじくってるだけ。ゲーム機を見たことのない人が見れば、どちらも同様の不可解な行為に過ぎません。
 なのに、一方は有益な職業。他方は私がブチ切れてキカイを取り上げるようなムダな行為。
 その差はどこにあるのか?
 私は幼少期、野球選手や力士やミュージシャンが、それそのものが仕事だということを全く理解していませんでした。
 彼ら彼女らは会社に勤めたり商店で働いたりしていて、仕事のない時に野球をしたり相撲を取ったりしていると思ってました。(ついでに言うと学校の先生は学校に住んでると思ってました。)
 スポーツや音楽を仕事としてやってゼニをもらうということが全く想像つかなかったんですね。
 プロの選手がするスポーツは仕事。アマチュア選手がするスポーツは仕事じゃない。
 時々プロより力のあるアマチュアが出てきます。バレーボールでもプロチームを破った高校生チームがあったりしましたっけ。プロとアマチュアの境目は力量とは言いきれません。
 仕事としてのスポーツと、そうでないスポーツ。
 その違いはどこにあるのか?

 すぐに思いつく答えは、ゼニ。お金をもらうためにやるのが仕事。
 確かに、たいていの仕事はゼニになります。
 でも、そうとも言いきれないんですよ。

 高校の吹奏楽部や合唱部のコンサートはチケットを売って運営します。利益目的じゃないけど、ゼニを取ります。
 ゼニを取る以上はプロと同じだ、そういう覚悟で演奏しろ、と指導者が叱咤することはありますが、でも高校生はプロじゃありません。クラブ活動は仕事じゃない。ゼニはもらっても、仕事じゃない。

 家事はゼニをもらえません。掃除しても弁当作ってもゼニにはならない。もちろん育児もしつけもゼニはもらえない。もらえないどころか持ち出しばっかり。
 では家事育児は仕事ではないか?いや、どう考えても仕事ですよね。「親の勤め」なんて言葉もありますし。

 仕事の定義がゼニじゃないとすれば、次に思いつくのは責務。やらなければならないことが仕事、やらなくてもよいことは仕事じゃないと。そうすれば家事育児は仕事だし、高校生のコンサートは別にやらなくても構わないから仕事じゃない。
 これもかなり説得力あります。
 では、これで完全にOKか?
 いや、私はまだ足りないと思います。

 
 私はこの年の3月、進路指導室の片付け&大掃除をキャップと2人でやりました。1トントラック1台分ほどの不用品を処分して室内をリニューアルする、それはもう大変な作業でした。
 ではこの大掃除は仕事でしょうか?
 別にやらなくても処罰もされませんし、やらなくても進路指導室の業務はできます。現にそれまでその状態で業務は行われていた。大掃除してもしなくても、いただくもの(給料)は全く同じです。
 私たちが大掃除を敢行したのは、そうした方がより自分たちのやりたいことができるし、その方が(たぶん)生徒のためになると思ったから。
 大掃除後の進路指導室には、これまでよりも多くの生徒が来訪して、質問やら相談やら資料探しやらをしています。
 この大掃除、私は仕事だと思います。


 私の考える仕事の定義
 それは、他者にとって価値のある行為
 例えば、他者にとってどうしても必要な、ないと困るようなものや行為
 あるいは、絶対必要でなくとも、他者がお金と引き換えに手に入れたいと思うようなものや行為

 内田樹は労働の本質は「贈与」であるとしています。

 「仕事とはゼニをもらうためのもの」という定義が結構当たっているのは、価値のあるものに対して人はゼニを惜しまないからです。
 「仕事とはやらなくてはならないもの」という定義が説得力があるのは、他人が待っている以上、その行為を自分の都合で勝手にやめるわけにはいかないからです。

 仕事か、仕事じゃないか。その線引きをするのは「他者」です。
 イチローが公式戦でファインプレーをするのは仕事ですが、客のいないところで何をしようと、それは仕事の準備でしかありません。
 ゲームの達人がゲーマーという仕事をする人になれたのは、達人のゲーム技を求める人々が出現したからです。


 親とか先生とかいう人たちは(私なんか親で先生)、すぐに子どもに「やりたいこと」と言います。
 でも、「やりたいこと」が仕事になるかと言えば、ウチの愚息よろしく、まあ大抵はなりません。
 他者がそれを価値あるものとして求めるかどうかで決まるものを仕事と定義する、とすれば、職業選択を「やりたいこと」という自分の内的な動機からスタートするのは、最初から危険と困難を伴ってしまいます。
 だって、自分のやりたいことなんですから。他者の価値になる保証はないですから。


 仕事を考えるときは「他者」の視点を持つことが必要だと思います。
 理想を言えば、他者にとって価値のある行為を創造的に行うことに喜びを感じられるといいんですけどね。

 前述の内田樹のブログに、あるレストランの話が出てきます。7人連れだったので1皿3個入りの唐揚げを3皿頼もうとしたら、そのウェイターが「7個でも注文できますよ、厨房に行って頼んできますから」と言ったと。で、連れの1人が、君はよく客に「ウチの店に来ないか」と勧誘されるでしょうと聞いたところ図星だったと。
 彼の行為はゼニのためじゃないし、責務でもないけれど、レベルの高い仕事と言えるでしょう。


 志望理由書の「やりたいこと探し」で苦闘している人は、「やりたいこと」の代わりに、「他人にとって価値のある行為で、自分としてもやってみたいこと、またはやれそうなこと」を探してみるといいかもしれませんよ。 
 
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