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ssh1052 競争主義者と議論することの不毛 [社会]

<2017>
<ssh610再録>

 競争主義を主張する人と議論するのは、実に楽しくありません。不毛です。
 今回は、そのあたりを探ってみようと思います。


 私自身は、意見の異なる人と議論するのがけっこう好きです。意見の合う人と議論するよりずっと面白い。
 意見の異なる人との議論は、いろいろと新しい発見があります。自分が考えたことのない視点論点を教えてくれることもある。
 もちろん緊張感を伴いますから、あまり気楽には臨めません。でも、少しでも話がかみ合うと、ちょっと充実感があります。

 ところが。競争主義者との議論では、そういうことがありません。
 人をバカにしてくるというか、潰しにかかってくるというか。若者言葉で言えば「上から目線」。
 
 議論ってのは、相手の意見を一通り理解して、肯定できる部分は肯定し、否定すべき部分は否定していくのが本来の姿です。
 なのに、競争主義の人って、こっちの言うことをまず絶対に肯定しない。ほぼ全否定。
 それも、ちゃんと理路整然と攻めて来るわけじゃない。論点をそらしているだの、それは重要な問題ではないだの、そんな悠長なことは言ってられないだの、どこに証拠があるだのと、こちらの言うことを受け止めること自体を嫌がっているんですよ。
 言っちゃナンですけど、相手の意見を受け止めることに怯えているような感じすらする。
 なぜ?


 私の仮説はこういうもの。
 競争主義者は、競争すること自体が実はあまり好きではない。彼ら彼女らは、ただ勝者になること、勝者であること「だけ」を渇望している。
 故に彼ら彼女らは、目先の勝ちにこそ集中していて、それ以前の部分にはあまり関心がない。
 だから、自分の意見論拠が首尾一貫しているかどうかということには関心がない。とにかく勝てばいい。意見がコロコロ変わることを、特に恥だとは思わない。
 議論ってのは、読んで字の如く、意見を論じ合うことです。論じなければならない。トークバトルじゃありません。
 論じるという行為は、理を持っていなければなりません。すなわち「論理」です。
 論理の壊れた意見、筋道の通らない主張、矛盾した論拠は、どれも論じる上での反則行為です。
 理を持って論じ合うから、対立した意見同士から、新たな発展が生まれる可能性がある。

 ・・・なーんて、難しい話を書かなくても、たいていの人にはそれはわかっています。
 議論をする時は、誰しも一応は論理的に意見を述べようとします。
 何か矛盾があれば、たいていの人は「そりゃおかしい」と思います。
 当然、自分の意見に矛盾があると気付くと、マズいなと思います。

 というのがフツーだとずっと思ってきたので、競争主義者が矛盾だらけのメチャクチャな物言いをゴリ押ししてくるのが、どーもよく理解できなかったんです。アタマん中、壊れとるのかいな、と。
 それで思いついたのが、前述の仮説です。
 恐らく彼ら彼女らのアタマん中が壊れているわけじゃありません。
 ただ、論理が一貫しないことに対する罪悪感が、ない。

 勝つことが正義だ。勝ちゃあいいんだ。結果がすべてだ。手段なんかどうでもいい ― そう心底信じていれば、論理矛盾なんて屁とも思わないでしょう。


 でも、論理矛盾をちょくちょくやっていたら、さすがにマズいんじゃないか、と思いますよね。
 実は、論理矛盾しやすい人が、それを指摘されないように逃げる方法ってのは、ちゃんとあります。
 なるべく話を長くしないこと。
 より正確に言えば、その場その場ですべてを終えること。昨日の発言と今日の発言を分断してしまうこと。

 ネット界だと、ツイッターとか、ブログのコメント欄の「通りすがり」なんてのは、実に有利な立場です。
 発言はその場だけ。仮に他の場で全然矛盾したことを言ったとしても、匿名ならまずバレませんし、匿名でなくても、よほど丁寧に追っかけている人でないと、論理矛盾は指摘されません。
 競争主義をギャーギャーわめき立てる輩って、ツイッターが好きですよね。


 ずるいんですよ、競争主義者って。
 最初っから反則攻撃に出ることがわかっている人間と、フェアに議論を戦わせるのは、ほぼ不可能です。

 そういうわけで、競争主義者との議論は、不毛です。
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