ssh622 批判は相手を変えない〜話し合うことの意義と目的(3) [話し合い・民主主義]
<2013>
1週間以上に渡って更新をサボっておりましたsshです。昨年は夏休みを利用して日曜大工に勤しんでいたのですけど、今年は家の内外の掃除やら片付けやらしているうちに休みがほとんど終わってしまいました。
さて、久しぶりの記事は、これまた大変に久しぶりの「話し合うことの意義と目的」ネタ。
テーマは「批判は相手を変えない」です。
他者からの批判には謙虚に耳を傾けるべし。耳を傾けて改めるべきは改めるべし。
正論ですね。いや、実にその通り。
・・・と言いたいところですけど、そりゃ、ただの正論です。正論ってのは、説教臭くて鼻につくものです。理屈は正しくても、実践につながるとは限らない。頭でそうだと思っても、心情的に面白くない。
そういうものに、人間は素直に従おうとは思いません。
人間を動かすのは、正論でもリクツでもありません。心情・感情・友情などの「情」です。
正論もリクツも、情を動かすための手段ではあっても、最終兵器ではありません。
情を動かなければ、相手は変わりません。
かく言う私も、批判に対しては「一応」耳は傾けはしますけど、でもやっぱり、批判で変わることは少ないです。頭では理解できても、どうしても面白くないんですよ。
「少年犯罪データベース」の管賀江留郎さんによると、戦前も戦後も、デキの悪い兄がデキのいい妹を殺害するという事件があるそうです。で、その発端は、利口な妹がヒョーロク玉の兄を正論で批判(というか非難)して、逆上した兄が妹を殺すのだと。
もちろんダメ兄が100%悪いのですけど、だからって、殺されちゃったら元も子もない。
反論のしようのない正論で批判されたら、人はたいてい逆上するのです。
もののわかっているオトナであれば、相手を追いつめるような言動は慎むものです。
人間は、共感によってしか変わらない。私はそう思っています。
先日、自宅リビングのコルクボードに、新聞の切り抜きが貼ってありました。貼ったのは嫁サン。
記事は「元気のひけつ 日本人は甘く見がちな健康のための節酒」。大酒飲みの私を少しは啓蒙しようとしたのでしょう。
で、読んでみたら、面白いことが書いてあった。アルコールの過剰摂取や依存に対してはニコチンと違って薬物療法がないのでカウンセリング中心の対応になるのだけれど、そのカウンセリングのポイントが、「共感する」「励ます」「ほめる」だと言うんですよ。
つまり、正論をただぶつけて説教(言い換えれば批判)をしても、相手は変わらないと言うんですね。
そりゃもちろん、アルコール依存に陥ったのは本人の責任です。本人が悪い。
悪いけど、それを相手にぶつけたところで、相手は変わらないのです。
医師はとにかく、相手を変えないといけない。なれば、とにかく相手への共感を示し、頑張るように励まし、少しでも頑張ったのならそれを評価してあげる。
誰が悪いのかを言い当てるのは評論家の仕事です。医師のような現場の人間にとって、誰のせいかを言い当てたところで何の利益もありません。患者が変わらなければ敗北です。
私は意見の異なる相手と妙な妥協をするのはキライです。
妥協すればその場は収まります。けど、後腐れがする。私は自分の気分が悪くなることはしたくありません。
かと言って、相手を罵倒したり一方的に批判するのもイヤです。筋は通るかもしれないけど、人間関係で後腐れが残る。
私が採るのは、自分の主張をきちんと伝えて、なおかつ相手との関係性を壊さないことです。
難しいのはわかってます。けど、どっちも大切なんだから、しょーがない。
相手の意見や立場をなるべく理解しようとして、共感できるところは共感を示す。んで、その上で、自分の意見はきちんと述べる―それが私のスタンスです。
ひとつ問題なのは、こういうスタンスで意見を述べようとすると、どうしても話が長くなることです。
sshの記事はどれも回りくどくて字数が多くなってます。その原因のひとつはこれですね。とにかく、自分と異なる立場に対して一通りの理解・共感を書かないと気が済まないんですよ、クセになってて。
他人のブログにコメントを書くときも、どうしても長くなりがちです。クドい中年男は嫌われますかな。