ssh659 犯人探しに興味はない [マスコミュニケーション論]
<2014>
―誰が悪いのかを言い当てて どうすればいいのかを書き立てて 評論家やカウンセラーが米を買うー
この世の中は、問題だらけです。
家の中でも、街中でも、職場でも取引先でも、大小さまざまな問題があります。
市町村とか都道府県とか国とか、国際関係なんてところまで考えると、問題は無数にあります。
問題は、ただ放っておくわけにはいきません。
なぜこうなったのか、どうすれば処理できるのか、あれこれ調べたり考えたりして、必要な処置をせねばなりません。
原因を調べるのは、とても重要です。原因がわかれば、対処の方法も立てやすい。
機械のトラブルであれば、原因となっている要因を取り除けば、たいてい問題は解決します。犯人を捉えればそれで解決するわけです。
しかし。
人間は機械じゃありません。人間社会も機械じゃない。
誰が悪いのかを言い当てて、そいつを成敗したところで、一件落着などしません。
何か問題が起きると、「何がいけないのか」「誰が悪いのか」ということは誰しも気になります。それを追求したくなるのは道理です。
ただねえ。
かねがね気になっていたんですけど、何がいけないのか、誰が悪いのかを言い当てたところで、世の中の問題の大半はまったく解決しないんですよ。
恥ずかしい話を一つ披露させていただきます。
もうずいぶんと前のことですが、大切な文書に数値のミスをやらかしてしまったことがあります。
誰が悪いのか?悪いのは私です。
私の作成した部分にミスがあった。私のチェックが甘かった故のミスです。それはもう、顔色が変わるほど焦りました。
私は管理職はじめ関係職員すべてにすぐに連絡を取り、状況を伝えてお詫びをし、必要と思われる処置を全員で大慌てで行いました。
結果、大きなトラブルに発展することなく、何とか状況を収束することができました。今思い出しても肝が冷えます。
もし、当時の勤務校が「犯人」を叩くような陰険な学校であれば、こんな風に動くことはできなかったと思います。
トラブルが発生したとき、一番重要なのはそのトラブルへの対処です。犯人を罰するのは、その後でいい。
2008年に発生した秋葉原通り魔事件の犯人の弟が自殺したというニュースをご存知でしょうか。
数多くの人間が殺され傷ついた事件ですから、犯人が処罰を受けるのは当然です。
しかし、その家族すべてが不幸になり、自ら命を断つことで、果たして問題は少しでも解決するのか?
通り魔事件という大きな問題に対する対処とは、遺族をケアすることと、同様の事件の再発を防ぐことのはずです。
犯人を非難し、犯人の家族が生きていけないような状況を作ることで、それができるとは思えません。
それほど大きな話じゃなくても、例えば家族の中とか隣近所なんかのちょっとしたイザコザであっても、やたらと「誰が悪いのか」を言い当てようとする人がいます。
でも、誰が悪いのかが決まったところで、問題は全然解決しないんです。
ネット界は犯人探しが大好きですね。
学力低下はゆとり教育が悪い。原発事故は民主党政権が悪い。財政悪化は日銀が悪い。すべての問題は反日工作員の仕業だ、等々。ウヨ君たちは被害妄想旺盛だからなんでもかんでも特定の犯人のせいにしたがりますけど、ウヨじゃない人たちも「こいつが悪い!」てな話をしたがります。
で、そういう人たちは、悪い奴らを殲滅せよという意見を声高に主張します。あたかも犯人を成敗すればそれですべてが解決するかのように。まーおめでたいことで。ナントカ戦隊カントカレンジャーみたいですな。
私は「犯人探し」には、興味がありません。
問題があるのであれば、それに対してどうしていくべきなのか。そのことにこそ、私の関心はあります。
ものすごく卑近な話をすると、メチャクチャに散らかった状況の部屋があったとして、誰のせいでこうなったのかというのは私にとって二次的なことです。私はまず、その部屋を片付けることを考えます。
散らかした張本人をどんなに叱責したところで、部屋が片付くわけじゃないでしょうに。