ssh664 Love&Peaceか、Hate&Warか(1) [競争と共生]
<2014>
1960年代から70年代にかけて、若者を中心にポップカルチャー(特にポップミュージック)とともに既存の価値観とは異なる価値観が広がりました。
その価値観を表す言葉としてよく使われるのが、Love&Peaceでしょう。愛と平和。
Love&Peaceと言うと、すぐに引き合いに出されるのはビートルズ、特にジョン・レノンです。
ただ、Love&Peaceは彼らの専売特許じゃありません。アーティストを始め世界中の人々に共有されていました。
1940年代、世界は第2次世界大戦というかつてない大規模な戦争を経験しました。その大戦争がようやく終わったというのに、50年代に朝鮮戦争が勃発し、米ソの冷戦が本格化し、60年代はベトナム戦争が泥沼化していました。戦争の悲劇を何度経験しても懲りない世界。愛と平和が叫ばれる必然性は十分にありました。
当時の若者は、今だと60~70代というところでしょうか。
時は流れて21世紀。今の日本は晋三坊ちゃまがオタクっぽい若者に熱愛されるご時世です。Love&Peaceは全くはやりません。
代わって今の日本を雰囲気的に支配しているのは、アジア蔑視であり、異論への不寛容であり、敵を見つけてボコボコにする姿勢であり、積極的平和主義というヘンテコな造語で化粧された武力行使志向であり、異論を封殺する高圧的な姿勢であり、やたらと好戦的であること。
してみると、今の日本を覆っている空気は、Love&Peace(愛と平和)の正反対のHate&War(憎悪と戦争)であると言えましょうか。
LoveとPeaceは、それそのものは善です。
もちろん、Love&Peaceなんか無力だとか偽善だとか批判されることはあります。しかしそれはあくまで実効性や実際の行動に対する批判。愛や平和そのものが悪だという批判はまず成立しません。
一方、HateとWarは、どう考えても善ではありません。憎悪こそ正義、戦争こそ平和に勝るとは、さすがに誰も言いません。憎悪も戦争も、それそのものは悪です。
でも、今の日本はHate&Warなんですよ。
共感よりも非難。和平よりも強硬姿勢。話し合いよりも実力行使。毅然とか断固とかいう言葉が大流行。
ホームレスや生活保護対象者に対しては、共感せずに自己責任論で切り捨てる。
犯罪には理解や更生ではなく厳罰(特に死刑)。バイトのいたずら投稿に大会社が損害賠償を訴える。
近隣諸国との相互理解を求めようとすると甘いだの反日だのと罵られる。ヘイトスピーチは日々行われる。武力衝突も辞さずとか威勢のいい物言いばかりが行き交う(そのくせ強硬姿勢に失敗したらどうするのかは語らない。後先考えてないんですね)。
誰だって、憎悪や戦争はイヤなものです。できれば平穏に暮らしたい。
なのになぜ、どう考えても善とは言えないHateとWarが、今この日本で流行できるのか?
一つのカギは、切迫感でしょう。
今は非常時である。呑気なことは言っていられない。厳しい姿勢で望まねばならない。
そういう前提があると、HateもWarも、とたんに「善きもの」になります。
それが証拠に、どーですか、Hate&Warを主張する人たちの切迫感というか不安感というか、見事なまでのビビりっぷりは。
曰く、◯◯しなければ国際競争に勝てない。
曰く、××しなければ近隣諸国に国益を奪われる。
曰く、△△しなければ日本の経済は破綻する。
1990年代に小泉純一郎内閣が労働法制をいじくった時の理由も、そうしなければ日本が国際競争に負けるというものでした。
で、それが功を奏したのか、単に景気の波が向上したのかはともかく、日本企業は業績を改善し、経済状態は全体としては良くなりました。
企業の業績が改善すれば、それだけ労働者の給与も上がり、国全体が良くなって行くというのが表向きのシナリオでした(トリクルダウンとか言います)。
ところが、企業の業績はうんと良くなったのに、どの企業も給与アップには応じませんでした。曰く、これでようやく雇用が確保できるのであって、厳しい国際競争に勝つには給与アップなどとんでもないと。
業績がアップしても、企業は「非常時」の看板を降ろさなかったのですね。
非常時であれば、業績に応じて給与を上げるという本来やるべきこともサボれますから。
「非常時」は、悪を正義に変える力があります。
今は非常時である。その前提を共有する人々が、Hate&Warに走るのでしょう。
(この項つづく)