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ssh690 アイデンティティ〜小論キーワード(22) [小論キーワード]

<2014>

 

 ssh687で「沖縄のアイデンティティの問題」という言い回しが出てきました。

 何気なく紹介したものの、「アイデンティティ」という単語は、まだsshできちんと紹介したことはなかったです。

 というわけで、今回は小論キーワードとして、アイデンティティを取り上げます。

  • identity()身元・正体・個性・独自性・自己認識・(自己)同一性・アイデンティティ

 さて、高校生ならご存知の通り、identityにはお友達である重要な派生語があります。

  • identify()確認する・見分ける
  • identical()全く同じ・同一の
  • identification()確認・同定・身分証明(ID)

 学生時代、これらが派生語なのに意味があまり似てないことに困惑しました。どうやって覚えたらいいものかと。

 で、最終的に落ち着いたのが、こういう結論。

 ある人物をAとします。で、Aさんの住所氏名年齢職業顔写真などなどをaとします。

 Aさんは生身の人間。aは運転免許証や身分証明書の記載事項です。

 AさんがAさんであることを確認するということは、Aさんの素性がaと一致していることを調べることです。もしAさんの身分証明書の記載事項がaと異なっていたら、Aさんの本人確認はできない。

 

 A=aであるとき、A is identical to/with a. つまり「Aaは同じ」と言います。

 A=aであると認めるという意味の動詞がidentify「確認する」です。

 A=aであると確かめる行為をidentification「確認」と言います。

 そして、aのことをidentityと言います。

 

 

 一言で言うと、アイデンティティとは「あなたは誰?どんな人?」に対する答えのこと。


 言い換えると、アイデンティティとは「私は何者なのか?」に対する答え=「私は◯◯である」の◯◯にあたるもののことです。


 最も一般的なものは名前・年齢・性別・国籍・人種・職業・住所など。身分証明書ならここに顔写真でもあれば十分。


 しかし、これだけでは「誰?」の答えにはなりますが、「どんな人?」への答えにはなりません。「どんな人?」への答えとしては、育ちや人柄や趣味や性格やクセなど、その人を表すいろんな表現が必要となります。優しい人とか、穏やかだけど芯が強いとか、明るいけれど案外マジメとか、何かにコンプレックスを持っているとか。


 


 論説文でわざわざアイデンティティというカタカナが用いられるときは、後者のような内容のこと、すなわち「私は何者なのか?」に対する答えのことを指します。


 アイデンティティは、個人以外に対しても使われます。国家のアイデンティティとか、企業のアイデンティティなんて言い方もされます。


 


 今、あなたがごくフツーに安定した生活を送っていれば、自分のアイデンティティはほとんど問題になっていないでしょう。それはそれでとてもハッピーなことです。


 しかし、人間はそういつもハッピーでいられるものでもない。いろんな困難にぶつかって、「いったい自分って何なんだろう?」と思い悩むことがあります。


 そういう時は、アイデンティティの問題が浮き上がってきます。


 


 アイデンティティの問題について、山田ズーニーが最新の『おとなの小論文教室』で秀逸な分析をしています。


 


 日本生まれの日本育ちであるフツーの日本人は、「私は日本人である」というアイデンティティをごく自明なものとして受け入れています。


 大多数の日本人にとって、アイデンティティというのはそういう「自然に形成されるもの」なのであろうということは、山田も指摘しています。


 で、山田は仕事柄、いろいろな人間に文章を書かせて読んでいます。そこには帰国子女とかハーフなども含まれている。


 すると、彼ら彼女らには、そういう自然に形成されたアイデンティティがない。彼ら彼女らは幼い頃から「自分は何者なのか?」という葛藤にさらされている。少なくとも「私は◯◯人である」ということをイノセントに言うことができない。そういう葛藤を経て、彼ら彼女らは、自ら意識的に自分のアイデンティティを作り出している。


 


 意識的に作り出されたアイデンティティは、作られるまでは苦労が多いが、一旦出来上がると強い。


 逆に、自然に作られたアイデンティティは、素直になじんではいるが、ひとたび揺すぶられると弱い。


 アイデンティティが揺すぶられるということは、自分の尊厳が危機にさらされるということで、それゆえ人は激しく落ち込んだりもする。


 なまじ自然にアイデンティティが作られただけに、それが揺すぶられた場合、次の自分の存在理由を見つけるのに苦労する、でも無理せず休みながら次に進んでいければいい、というようなことを山田はアドバイスしています。




 sshはここで、冒頭の「沖縄のアイデンティティ」へと話を持って行きます。


 私自身は日本生まれの日本育ちでして、自分が日本人であるというアイデンティティの認識は、あまり疑っていません(母親が引き揚げ民なので先祖代々日本生まれの日本育ちという方ほどではないとは思いますが)


 じゃあ、沖縄の人々はどうなのか?彼ら彼女らのアイデンティティとは何なのか?


 


 沖縄の人々のアイデンティティというのは自ら意識的に作らざるを得なかったものであろうと私は思います。山田が指摘する帰国子女やハーフのそれと同じように。


 そもそも、かつて沖縄は琉球王国という独立した国でした。独自の文化と経済と政治を持ち、貿易で栄えていた。江戸時代に薩摩藩に侵攻されてからも、実質的には独立国だった。沖縄が実質面でも日本の一部となったのは1879年の琉球処分によります。その後は日本政府による同化政策の強要というアイヌにも似た歴史を経て、アジア太平洋戦争の沖縄戦で20万人以上の死者を出す凄惨の現場となり、大日本帝国の無条件降伏以降、1972年に返還されるまではアメリカ統治下でした。(以上中学校の歴史教科書レベルのお話)


 


 沖縄の人々にとって、「我々は何者なのか?」という問は、極めて切実な意味を持っています。


 少なくとも、「我々は日本人だ」とイノセントに言えるようなものではない。


 


 沖縄基地問題を含めた諸々の問題で、地元と本土の人間がなかなか意思疎通ができない大きな理由は、ここにあるのじゃないかという気がします。


 ごくイノセントに自然にアイデンティティが形成されている本土の人々と、アイデンティティに自覚的にならざるを得ない沖縄の人々。


 大げさにいえば、これは国際理解並みに深い考慮の必要な問題じゃないでしょうか。


 


 


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