ssh724 ガンディーと職員会議といささかの勇気 [三題噺]
<2015>
忘れっぽい(忘れさせっぽい)中央メディアはとっくに旧聞にしてしまっている、ドイツのメルケル首相の来日。
日本の戦争責任問題に言葉を選びながらも忠告を与え、演説会場にわざわざ「話題の」朝日新聞社を選んだりと、彼女は日本の現状に相当な憂慮を持っていたのだということがシロウト目にも伺い知れました。中央メディアはそういう重要なメッセージを(たぶん意図的に)軽く扱っていましたが。
そのメルケルが引用したマハトマ・ガンディーの言葉がこれ。
「あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」
でもこれ、何が言いたいのか全然わからないという人が多いんじゃないでしょうかね。特に安倍シンパの方々にとってはサンスクリット語でも読んでるような感じでしょう。
話変わって、私shiraは話し合いというものが割と得意です。くだらない会議は嫌いですが、きちんと議論や意見交換のできる話し合いはけっこう好きです。
sshには「話し合うことの意義と目的」というカテゴリーがあります。まだ記事は3本だけですが。(注:Ver.2.0では「話し合い・民主主義」と改名)
なんでも東京都では、職員会議で挙手すること自体が御法度だそうで。東京は日本のピョンヤンですかいな。
それに引き比べ、わが地元では職員会議では自由闊達な議論が許されています。闊達さが弊害になることもなくはないですが、現在は自由闊達な議論が学校長の最終決定の有効なバックアップとなっています。学校や生徒を良くすることが一番大切だということが共通認識されていれば、自由な議論はプラスになってもマイナスにはならないものです。東京みたいなところで教員にならなくて良かったなあと心底思いますね。
私は職員会議でよく発言する人間です。
根がおしゃべりということもありますが、理由はそれだけではありません。
私がどうしても発言をせねばならないと思うとき。それは、重要なことを誰も言わないなと察したときです。
私はいたって臆病な人間です。一見の店に一人で入ることは怖くてできません。旅行も怖い。初めての人と話すのは本当に苦手です。電話も苦手。今もって電話をかけるときはちょっとばかり勇気が必要です。
会議というのは、その時々で妙な「空気」が発生します。どうでもいいようなテーマに滅多やたらと意見が続出するかと思えば、すごく重大な事案なのにシーンとしてしまうこともある。
シーンとした空気の場で発言するのはすごく勇気が必要です。
会議の場で何も言わず、会議が終わってからあれこれ言う人がいます。
私はアレが大嫌いです。
ものごとは「何」を言うかだけでなく、「いつ」言うのかも大切です。
どんなに優れた意見であっても、言うべきタイミングを逸したら、価値はひどく落ちます。競馬の予想はレース前でなければ無価値、それに近い。
今、この会議の場で、どうしても指摘しておかなければならないことがあるのに、誰もそれを言おうとしない。
そういう時、私は、ちょっとばかり勇気を出して、それを指摘します。
必ずそうします。イヤでも、元気がなくても、そうします。
そうしなければ後悔するから。
花森安治が「どぶねずみ色の若者」というエッセイを書いています。昭和40年代の古~い文章です。
当時の若者は、学校の制服にかなりの抵抗感を持っていました。制服なんかファッショだと言って着たがらない。なのに、いざ社会人になると当時流行のグレーのスーツを自発的に新調している。それは無難で平凡な幸せを望むが故のことなのだろう。たかがスーツだからこそ、好きなものを着ればいいではないか。グレー主流の世の中で自分の好きなものを買おうとすると「いささかの勇気」が必要となる。その「いささかの勇気」すらなければ無難で平凡な幸せなどとても手に入らない、というお話です。
以前も書いたのですが、当地では昔から小学校の卒業式は進学先の中学の制服で参加するのが通例となっています。最近はきっちりその旨が通達されますが、私の小学生時代は単なる通例。決め事でもないのにみんなが唯々諾々と制服を着るのがどうにも好きになれなかった私は、制服着用がルールではないことを担任に何度も確認した上で、学年で唯一、私服で卒業式に参加しました。両親は困ったでしょうけど、どーせ言うこと聞かないだろうと認めてくれ、それでもあんまりみすぼらしい格好ではアカンと青いブレザーを着せてくれました。
私は自分の意思を通せて良かったと思っています。あそこでガマンして詰め襟を着ていたら、けっこうな敗北感を引きずったんじゃないかと思います。
ここでやっと話は冒頭のガンディーの台詞に戻ります。
ガンディーがどういう状況でこの台詞を述べたのかは調べてませんが、名言というのは得てして勝手な解釈をされるもの、私も勝手に解釈しちゃいます。
私が思うに、ガンディーの言う「あなたのすること」とは、私たちが「いささかの勇気」を持って行うことなんじゃないでしょうか。
日本は同調圧力の強い文化圏です。安倍政権下でこの傾向は極度に高まっています。
今の日本は、現憲法を尊重したいという公務員なれば義務であることですらイデオロギーだの政治的だのと後ろ指さされる妙チキリンな国です。東京が日本のピョンヤンなら、日本はさしずめニッポン自由民主主義人民共和国でしょうか。
同調圧力は、自分のごくごく些細な意見や気持ちを表明することすらはばからせます。
学校によっては、生徒たちは服装や言動やラインのやり取りに神経をすり減らしています。同調から外れてイジメのターゲットにならないように。会社や省庁でも似たような境遇にある人はいるでしょう。
メディアで働く人たちは、本来言うべきことが上層部の意向で(またはそれを忖度して)言えなくなっています。
周囲に同調するために、自分の意見や気持ちを封じ込めるとき、多くの人はたぶんこういう風に自分に言い聞かせるのでしょう。
こんなこと大したことじゃない。こんなことを言ってみんなとトラブルを起こすのは賢くない。自分の意見や気持ちをはっきり言わなければならないのは、本当に大切なことを言うときだ。そのときに頑張ればいい。
断言します。そのときに、アナタは絶対に、ぜーったいに、頑張れません。
普段から「いささかの勇気」を行使していないヘタレが、その何倍もの本物の勇気なんか、行使できるはずがありません。
普段ロクに歩いてもいない人間が、いざという時に全力疾走できますかいな。無理でしょ。
「いささかの勇気」を奮い起こすことをしていないと、周囲に合わせるだけのヘタレに惰するのですよ。
それがガンディーの言うところの「世界によって変えられる」だろうと、私は考えます。
安倍政権下でイジイジと上目遣いな報道ばかりしている中央メディアのブン屋さんもTV屋さんも、いよいよの時は決起してやると内心では思っているのかも知れません。彼ら彼女らの良心まで私は否定しません。
でも。今のままだと、決起は実現しません。というか、今のあなた方には決起はできません。
あなた方は「世界によって変えられて」しまってますから。
メルケルがガンディーの言葉を引用したのは、中央メディアの人たちに対するメッセージだと読み取るべきでしょう。そう考えなければ彼女がわざわざ朝日新聞社を講演会場に選んだ理由とのつじつまも合いません。
ま、今からならまだ間に合うかも知れないと思いたいですが。
勇気を振るわねばならない場面は、日常的にやってきます。
その多くはしごく小さなものです。たかが服装だったり、たかがメニューの選択だったりします。
何を着るか、何を食べるか、何を聴くか、何を観るか、何を買うか、何を好きと言うか。
一つ一つは実にどうでもいいことです。ガンディーの言うように、まさしく「無意味」です。
しかし。そこでうじゃじゃけて周囲に合わせてばかりいると、やがて自分が周囲によって「変えられ」、自分の気持ちはただ殺すためのものになります。
闘いは日常なのですよ。
闘いは、カッコ良くもないし、意味もない。でも闘いは、自分のためにあるんです。