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ssh424 ホントに「当たり前」なのかも〜ssh423の余白 [社説の読み方]

<2011>

 

 ssh423 社説の読み方~君が代訴訟東京高裁編 はおかげさまでたくさんの方にアクセスいただいたようです。やっぱ「君が代」と見出しに入ると、それだけでアクセスは増えるんでしょう。ただ、使命感(私が正義を教えてやる!てな)を持ってやって来た方々には大変申し訳ないのですが、拍子抜けだったんじゃないでしょうか。ssh423は社説のイジリ倒しですから。

 

 とは言え、イジリ倒しであっても、読んでいるうちに何か気づくということはあります。

 

 私はかねがね、こういう物言いがすごく気になっていたのですよ。

◆◆学習指導要領は、教師に対し、国旗の掲揚と国歌の斉唱を指導するよう定めている。しかし、それが学校で十分に守られていなかったために出されたのが、都教委の通達だった。教師が個人的に様々な歴史観や世界観を持つのは構わない。だが、指導要領に反してもいいということにはなるまい(読売クンの社説より)◆◆

 

 個人が様々な思想信条を持つのは構わない。しかし、取り決めに反してもいいということにはならない。

 私はこういうものは大キライでどうにも納得できない、と思うこと自体は構わない。しかし、仕事上、立場に対しては従順でなければならない。

 

 これがねえ、私にはどーにも理解できなかったんですよ。

 でも、ssh423を書いていたら、ピンときたんです。

 

 この記事を書いた人は、本当に、naturalに、「そんなの当たり前じゃん、全然難しいことじゃないじゃん、どーせ仕事じゃん、自分の気持ちなんかカンケーないじゃん。」と思っているんじゃないか、と。


 え~とネタ元を忘れちゃって恐縮なんですが、どっかでこんなような文章を読んだことがあります。

 どこぞの出版社で中高年男性向け雑誌の記者をやっている若い女性に取材を受けた。若い女性記者がオヤジ向けの記事を書くということに違和感を覚えたので、こういう仕事は大変じゃないですか?と尋ねたところ、方針に従って書くだけなので別に全然大変じゃない、と返答されて、返す言葉がなかったと。

 

 「おしごと」なんですね。記事は。

 勤務先に「こうしなさい」と言われたから、こうする。それが仕事。

 いや、大したものです、この忠誠心というか、割り切りというか。


 

 ssh423へのコメントで、solea02さんが記していたことですが(注:コメントは消失)、中央紙にも真面目に取材して記事を作成しようという記者はいたのだけれど、上にボツにされてしまったと。

 メディア人としては、そういう記事こそ価値があるのです。

 しかし、カイシャインとしては、そういう仕事は有害無益。評価されない仕事なら、最初からやらないのがベスト。

 宮仕えというのは、そういう世界です。理念よりも、正義よりも、使命感よりも、何よりも優先するものがある。

 

 いや、もちろんこれは悪い意味での共感です。

 自動車メーカーが、クルマの安全性やユーザーのことよりも、自分の立場を優先するようになったらアウトです。

 料理人が、食べる人のことよりも、親方や社長やチェーンの顔色を優先するようになったら、早晩その店は客がこなくなります。

 政治が市民よりも他の何か(支持母体とかアメリカとかあれこれ)を第一に考えるようになったら、その政治は末期です(もうなってるかも)

 新聞記者が、青臭い正義や使命感よりも、カイシャインとしての責務を優先するようになったら、もはや記者ではありません。ただのカイシャインです。

 学校の先生が、生徒のことよりも、自分の保身や立場を優先するようになったら、もう無価値です。

 

 

 私が「ピンときた」のは、読売クンの社説を書いた人、それに心から、毛ほどの疑いもなく共感できた人、個人は個人、仕事は仕事と、スッキリ爽やかに割り切れる人というのは、もしかしたら、本当に、心底、仕事と思想信条は分けて考えるのが当たり前と思っているのじゃないかと。

 もうちょっと突っ込むと、何かのはずみで読売の記者が朝日に動いたら、動いたその日に180度異なる記事を、何のためらいもなく書けるのじゃないかと。だって、仕事ですから。もちろん逆もアリ。

 敢えてイヤミなことをやると、冒頭で引用した読売クンのアレでこんなパロディもできます。

 「我が社の規約は、社員に対し、◯◯をするように定めている。社員が個人的に様々な歴史観や世界観を持つのは構わない。だが、社の規約に反してもいいということにはなるまい。」

 で、こういうのに対して「当たり前じゃん」と思えるような人ばっかがメディア人になっているんじゃないかしら?というのが、私の危惧なんです。

 

 勤め人なら、勤務先から要求されることには従うのが当たり前。

 個人の思想信条なんて、何それ?仕事には無関係じゃん。

 異動して、そこで正反対のイデオロギーの意見を書けと言われたら、もちろん書く。仕事だから。

 それが当たり前。だって仕事だから。良心が痛む?何それ?わかんな~い。

 ・・・というようなタイプの人が、「おしごと」として、いろんな記事を書いているんじゃないか?


 だとすれば、ああいう意見が何の屈託もなく出てくるのは理解できます。だって、「良心が傷む」ということ自体がよくわからないのだから。仕事は仕事でしかないのだから。

 

 これは国旗国歌をどーこーせいと言ってくる側も同様の可能性があります。

 今はこういうご時世だから、こうしなさい。アナタの気持ちはあるのでしょうけど、こうしなさい。

 え?イヤだ?なぜですか?仕事じゃないですか?ナゼできないのですか?おかしいでしょ?たかが旗と歌ですよ?言われた通りにやればいいじゃないですか?どうしてもイヤだ?なぜですか?仕事じゃないですか?わからないな~。ただ旗飾って歌歌うだけじゃん。何でその程度のことができないの?内心?カンケーないじゃん、仕事でしょ?

 「良心が痛む」という言葉の指し示すことが、そもそも全然感受できないのかもしれません、指示する側は。

 

 

 モノを考えるスタート地点は「?」です。

 なぜ?どうして?誰が?それは本当に正しいの?それでいいの?じゃあこういうのはどうなの?

 「?」を出すこと=問いを立てること。これが「考える」ことです。

 ssh423で紹介した読売クンや産経クンの社説のような文面にすごくアレルギーがあるのは、あれは考えることをやめなさいという命令文だからです。

 

 本来、ものを考えることが仕事であるはずの記者が、なぜあんな思考停止奨励文を書くのか?

 それはもしかしたら、「オレたちだって上の方針であれこれ書いているだけだよ。報道だって教育だって、仕事なんかそんなもんじゃん。なのに、なぜキミたち教職員は個人の思想信条だの何だの、何を裁判まで起こしてそんなつまらんものにこだわるの?」という、ナチュラルな疑念だったのかもしれません。


 

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