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ssh693 Love&PeaceかHate&Warか(3)〜ポール・マッカートニー公演中止で大混乱が起きなかったわけ [競争と共生]

<2014>

 

 放課後90で書きましたが(注:記事は消失)、私はこの517日にポール・マッカートニーの国立競技場公演に行くために上京し、当日の会場で延期(後に中止決定)の知らせを受け、泣く泣く帰郷しました。

 発表が直前だったため、会場周辺にはすでに万単位の人々が集まっていました。私のように遠方から上京した人間にとっては、足代も宿代もムダになってしまったわけです。

 

 この件については「混乱」が発生したと報道されています。実際、初日のみ延期の発表が2日間中止になり、東京での3公演すべて中止になり、ついに来日公演すべて中止というふうに発表は少しずつ行われ、帰郷した私はその後の対応についてあれこれ考えねばなりませんでした。

 

 一方、517日の国立競技場周辺ですが、こちらはそれほどの混乱はありませんでした。

 ファンのため息はあちこちから聞こえましたが、悪口や罵声を耳にすることはなく、みなさん大人しく移動していました。

 先日発売のロッキングオン誌によると、お世辞にもいい対応と言えない今回の中止に対し、日本のファンからはポールの身体を心配する声ばかりが届けられ、これがポール側を驚かせたのだとか。

 一部のメディアでは(って産経ですけど)ポールの体調管理がプロに値しないとかアホなことを書いたライターもいましたけど、そういうのはファンでも何でもない人たち。

 一番淋しい思いをし、一番損をしたファンたちは、何よりもポールの健康を案じていたのです。

 

 なぜ?

 長年ポールのファンである私からすれば、これは不思議でも何でもない、ごく自然なことです。

 答えは、Love&Peaceです。


 

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ssh680 Loveはひらく、Hateは閉ざす〜Love&PeaceかHate&Warか(2) [競争と共生]

<2014>

 

 山田ズーニーの「おとなの小論文教室」で、ここのところ「ひらく鍵とざす鍵」なるテーマの考察が行われています。このテーマは「Love&PeaceHate&Warか」を考えるいいヒントになりました。

 

 山田によると、今年あるドラマに熱中し、その主演俳優をかなり好きになった。

 すると、その俳優が出ている他のドラマや映画も見たくなり、その出演作品の原作だったマンガもチェックしたくなり、そうやって次々と興味関心が広がって行き、見たいもの・行きたいところ・やりたいことがどんどん増えて、ものすごく楽しみが広がってきたと。

 ある俳優を好きになることで、様々な方向の扉が開かれたわけです。

 

 逆に、仮にある誰かを「嫌う」という行為に出た場合、様々な方向の扉がどんどん閉ざされていく。

 ある人を嫌うと、その人が出席するパーティーにも出たくない。するとそのパーティーで会えるはずの別の誰かと会うチャンスもなくなる。その人との関わりから得られたかもしれない様々なものとの関係がすべてパアになる。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言いますけど、坊主がキラいとなれば、その袈裟までイヤに思える。寺も墓も坊主の家族も檀家も関わりたくない。どんどん世界が狭くなっていく。気分も閉ざされていく。


 Loveはひらく、Hateは閉ざす、ということですね。

 心が開かれていくと、新しい世界に次々に巡り会える。新しいことに出会いたくなる。気分も上向く。気持ちが前向きにある。やる気が出て来る。充実感が湧いてきます。

 心が閉ざされてくると、自分の世界がどんどん狭くなる。新しいことに出会いたくなくなる。気持ちは陰鬱になる。行動しようという気持ちも萎える。自分に自信がなくなってくる。


 前々から気になっていたんですよ。

 Hate&Warの人たちは、嫌悪をまき散らして、不法なヘイトスピーチすらまきちらして、周囲の人間を不快にし続けている。

 なのに、なんでああも楽しくなさそうなのかと。

 せっかく他人に迷惑をかけているんだから、自分くらいは面白可笑しい気分になれば良さそうなものなのに、全然楽しそうじゃないんですよね。


 

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ssh664 Love&Peaceか、Hate&Warか(1) [競争と共生]

<2014>

 

 1960年代から70年代にかけて、若者を中心にポップカルチャー(特にポップミュージック)とともに既存の価値観とは異なる価値観が広がりました。

 その価値観を表す言葉としてよく使われるのが、Love&Peaceでしょう。愛と平和。

 

 Love&Peaceと言うと、すぐに引き合いに出されるのはビートルズ、特にジョン・レノンです。

 ただ、Love&Peaceは彼らの専売特許じゃありません。アーティストを始め世界中の人々に共有されていました。

 

 1940年代、世界は第2次世界大戦というかつてない大規模な戦争を経験しました。その大戦争がようやく終わったというのに、50年代に朝鮮戦争が勃発し、米ソの冷戦が本格化し、60年代はベトナム戦争が泥沼化していました。戦争の悲劇を何度経験しても懲りない世界。愛と平和が叫ばれる必然性は十分にありました。

 当時の若者は、今だと6070代というところでしょうか。


 時は流れて21世紀。今の日本は晋三坊ちゃまがオタクっぽい若者に熱愛されるご時世です。Love&Peaceは全くはやりません。

 代わって今の日本を雰囲気的に支配しているのは、アジア蔑視であり、異論への不寛容であり、敵を見つけてボコボコにする姿勢であり、積極的平和主義というヘンテコな造語で化粧された武力行使志向であり、異論を封殺する高圧的な姿勢であり、やたらと好戦的であること。

 

 してみると、今の日本を覆っている空気は、Love&Peace(愛と平和)の正反対のHate&War(憎悪と戦争)であると言えましょうか


 

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ssh605 競争主義者は競争がキライ [競争と共生]

<2013>

 

 久しぶりに競争主義について考えてみます。

 今回の眼目は、競争主義を主張する人たちは、実は競争というものを愛していないのではないか?ということです。

 

 

 「努力・友情・勝利」を基本方針に1980年代に圧倒的なシェアを誇った少年ジャンプ。「キン肉マン」「ドラゴンボール」「聖闘士星矢」「スラムダンク」など数多くのメガヒットを生み出しました。今はさすがに往時の勢いはありませんが、それでも「Bleach」はじめ多くのヒットを生んでいます。

 努力・友情・勝利を具現化するには、戦いが不可欠です。ジャンプの人気マンガのほとんどはスポーツなり戦闘なりの「戦い」のストーリーです。ストーリーの中で、ヒーロー達は血と汗と涙の努力をし、仲間との友情を糧に、最後は必ず勝利する。

 そういう展開なので、連載が長引くにつれ敵がどんどん強くなって、しまいにゃバケモノみたいなのが出てきて収拾がつかなくなってという形で連載終了と相成るというのがこの方針の呪われた宿命です。

 まあそれでも、「努力・友情・勝利」の物語はやはり楽しいものです。

 

 「努力・友情・勝利」の物語は、言わば、みんなで頑張って競争してレベルアップしていく話です。競争主義の物語と言えないこともない。

 

 ただ、ジャンプのヒーローたちは、案外と勝利そのものにこだわっていません。勝利そのものよりも、その過程にこだわっている。間違っても卑怯な手は使わない。フェアな戦いで勝つことを求めている。

 さらに、ここが面白いところですが、ヒーローたちは、戦うこと自体を愛しているのですね。

 ドラゴンボールの孫悟空にしても、Bleachの死神たちにしても、強い相手と戦うことが大好きです。戦いを「楽しかった」と平気で言ってみせる。勝って当たり前の戦いなど、バカバカしくてやってられない。戦わないことなど退屈で仕方ない。

 ヒーローたちは、勝ち負け以前に、「いい戦い」がしたいのです。

 

 

 一方、リアルワールドでも、そういう人がいます。


 

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ssh589 共存を望むか拒むか、それだけではないのか [競争と共生]

<2013>

 

 本当に大切なものって、結局、一つだけなんじゃないでしょうかね。

 いきなり大げさなスタートですみません。でも、ここのところ、そんなことをずーっと考えていたんです。

 

 受験にしても、進路選択にしても、面接小論志望理由書にしても、教育問題にしても、メディアにしても、政治経済外交その他のもろもろの問題にしても、親子関係にしても何にしても、「本当に大切」なものって、たった一つじゃないか。そう思ったんですよ。

 

 それは、共存

 立場や意見や好みや文化やその他の違いを持つ他者と共存しようと思うのか、思わないか

 自分の中に、さまざまな意見や感情や価値観を共存させておくことを良しとするか、悪しとするか。

 共存を望むのか、それとも共存を拒むのか。

 結局、それだけなんじゃないかと。

 

 受験であれば、自分の現在の実力という事実を受け止め、その上で自分の求めることをどう実現しようとするか。どちらかを否定することなく、現実も理想もごまかさずに共に受け止め、その上で次のステップが歩みだせるかどうか。理想と現実を共存させる覚悟があるかどうか。

 面接小論志望理由書であれば、テーマをきちんと受け止め、自分にできることの限界を知り、その上で、せめて今の自分にこれだけは言えるというものを表明できるかどうか。自分の無力と自分の意思を共存させる気持ちがあるかどうか。

 教育現場であれば、現状を正面から受け止めつつ、「ムリだよ、できっこないじゃん」とか「政治が悪いんだよ」とか諦めることなく、せめて自分たちにできる最善の策を考えるかどうか。

 政治問題であれば、自分と意見の異なるものを「反日」だの「反動」だのと斬って捨てるのではなく、そういう相手とも、同じ国の人間あるいは同じ世界の人間として、相互理解とまではいかなくても、共存していこうと思うかどうか。


 

 その中でも、特に大切なこと。

 それは、自分の中に、相反する視点観点を共存させる覚悟があるかどうか。

 

 感情的には好かないけど、言っていることは納得できるんだよなあ、とか。

 立場としては従うべきなんだけど、どうも納得できない、とか。

 こうするのが仕事とはいえ、こんなことしていいとは思えない、とか。

 よくないとは思うけど、それを口にすることは自分の利益に反する、とか。

 そういう相互に矛盾するものを、両方とも抱えていく覚悟を持てるかどうか。

 

 たぶん、それが一番大切なことだと思うのですよ。

 

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ssh464 競争の前提は共生である [競争と共生]

<2011>

 

 いつも前向きで素敵なムッシュさんのブログに、「学び合い」に関する記事がありました。

 「学び合い」というのは、文字通り、生徒たちがお互いに学び合うような教育のやり方のこと。提唱されたのはかなり最近のことで、提唱者は上越教育大学の西川純氏。ムッシュさんはこの方法論を実践している小学校に見学で行ったようです。

 

 学び合いの授業参観記 その1

     同      その2

(注: リンク有効)

 その2の一部を引用させていただきます。

 

◆◆

 どんな授業でやっていますか?

 国語・算数・社会・体育など、めあてがはっきりするような授業だとやりやすい。体育の場合、1時間目は指導。それ以後は学び合いということもある。

 課題達成できない子が少なくなった場合、他の子はどうしますか。

 できない子を誰かが教え、他の子は予習をしている。

 みんなができることの「みんな」は、つらさを生まないか?
 みんなができることは理想。この理想を掲げることは大切。ただしできなかったとしても、加点法での語りをしていくことが大切。例えば、今までできなかったけど、ここまでできるようになったよね、というように。

 ほっといてくれ!という子がいたら、どうしますか。
 みんなに語りかける。「その子が学習に参加してくれるようになるには、どうしたらいいだろう・・・」と。実際に、そのような語りかけで、教室を飛び出してしまうような子が、学習に参加し、子供たち自らがその子のために学習会をするようなドラマが生まれた。◆◆

 

 さて、この記事にグッときた私は、こんなコメントを書き込ませてもらいました。

 

◆◆学校教育については、よく競争か共生かみたいな議論が起きて、昨今は競争派が優勢ですけど(少なくとも震災前までは)、そもそも競争による切磋琢磨ってのは共生が前提なんですよね。競争に勝つには自分が努力するより相手がコケてくれた方がラクなわけで、極端な話、まわりが全員アホウなら何もしなくてもNo.1になれるわけです。だから競争は自分のレベルアップと同等かそれ以上にライバルのレベルダウンがプラス要素なわけです。1970年代のスポーツマンガにはライバルを罠にはめる悪辣なライバルがよく出て来ましたけど、あれは方法論はともかく、競争原理的には正しい発想であるわけです。

 ところで、本物のトップアスリートはよく「ライバルがいたからここまで来れた」と言います。自分が極限まで頑張れたのはライバルもレベルが高かったからだと。これはまさに共生の発想です。

 競争が足の引っ張り合いでなく全体のレベルアップになるためには、競争への参加者に「共生」の姿勢がないといけないと思います。 ◆◆


 

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ssh117 競争主義の成れの果て〜ssh的足立区学力テスト問題考 [競争と共生]

<2007>

>学校ぐるみで成績向上「不正」の疑いも 足立区立小(記事本文はリンク切れ)

 東京都足立区が区内の全小中学校で2006年に行った独自学力テストで、とある小学校が障害児を集計から外していたんだそうで。で、どうもテストそのものにも手心が加えられていたらしいという記事。
 この学校、たった1年で学力テストランキングが44位から1位に大躍進した話題の学校なんだそうで、知りませんでした。非東京都民たる私にとっちゃ、話題でも何でもなかったですわ。
 
 まあ、事情はいろいろあるんでしょうけどね、インチキはいけません。野球界なら裏金問題、食品会社や建築会社なら偽装問題、政治家なら架空会計問題と、確かに世の中インチキだらけですけどね。
 せめて学校くらいは慎まんと。

 ただ、こういうことは言えると思うんですよ。

 曰く「競争主義で教育を活性化せよ」
 曰く「保護者に選ばれない学校に存在価値はない」
 曰く「ダメな先生にはやめていただく(by晋三坊っちゃま)」
 こーゆーのが「改革」だってんですからね。
 しかも日本国東京都ってとこは、学校間競争でも君が代斉唱でも何でも、教育行政が猪突猛進、脇目も振らずに(生徒も保護者も見ないで)ひたすら激走まっしぐら。
 学校はどんどん統廃合、教員はどんどん処分しちゃいます。

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ssh100 「競争主義」で小論書いてみました [競争と共生]

<2007>

 それでは、実際に私が書いてみた小論文を御覧下さい。

■■■
 競争主義を教育に導入するのは、慎重であるべきだと思う。特に、学校間の競争は、制限すべきである。
 教育バウチャー制度など、学校間の競争主義を支持する人々は、競争によって各校の努力が求められ、教育全体のレベルが上がると主張する。
 だが、競争というのは、本来全体のレベルアップのためにあるものなのだろうか。競争の本来の目的は、「敗者を作ること」なのではなかろうか。
 例えば選挙の場合、立候補者が定員以内なら無投票で当選となる。選挙という競争は立候補者が定員を超え、落選者を出す必要がある時だけ行われる。オリンピックの代表選考でも、競争が必要なのは候補者が多い時だけだ。競争は、ふるい落とす時にだけ必要なのである。
 敗者となった学校は、どうなるのだろうか。閉校だろうか。予算の縮小だろうか。
 「競争に負けた学校は、生徒保護者に選ばれなかったのだから、なくてもいいのだ。」という意見もある。例えば大学なら、そういう意見も当たらないことはない。だが、義務教育はどうだろうか。競争の結果、近隣の学校が閉校や予算縮小となれば、教育を受ける権利は奪われることになる。これは法律的にも大問題だ。
 スポーツや経済の世界であれば、競争の敗者は人生そのものの敗者とは限らない。敗者には次の機会も別の世界で活躍する機会もある。だが、敗者となった学校に、次の機会はあるのだろうか。一度「負け組」に転落して予算も削られた学校は、もはや競争に再チャレンジする力はあるまい。
 競争は敗者を作るためにある。競争主義を語る際には、そのことを前提とすべきだと思う。私は、少なくとも義務教育においては、学校間での競争をあおることは危険であると思う。
■■■

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ssh99 思考から小論文へ〜競争原理教育考を小論にしてみる [競争と共生]

<2007>

 ssh98はやたらと長くてぶっきらぼうで小難しい記事でした。が、これは意図的なものです。

 実は、ssh98は、「教育現場への競争主義導入について、キミはどう思うか?」という宿題を自分に課して、それに対して私の頭の中で起きたことをほぼそのまま実況中継的になぞったものです。

 まず、テーマが課される。
 私はあるテーマに対して考える時は、まずとりあえず、そのテーマに対する賛否双方のいろいろな意見を並べてみます。並べて比べているうちに、何か面白い視点に気付くことが多いからです。
 ただ、今回はそうはいきませんでした。(私自身が競争原理教育に懐疑的なので、うまく比べられなかったんでしょう。)

 賛否両論を比べてもあまり実がない時は、身近なできごとに目を向けてみることにしています。
 それで、選挙と大学入試について考えてみました。
 すると、「無投票当選」と「大学全入時代」というものを思い付きました。競争率が1を割ると、競争そのものがなくなる。
 選挙も入試も、定員オーバー分を「落とす」ためのもの。落とす必要がなければ選挙は行われない。

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ssh98 ssh的競争原理教育考 [競争と共生]

<2007>

 redさんのブログに刺激されて、改めて教育現場への競争原理導入について考えてみた。
 もちろん、教育の世界には昔から競争がある。成績、スポーツ、その他、生徒たちは常に競ってきたというか、競わされてきた。
 昨今の競争原理教育というのは、生徒だけでなく、教員や学校もお互いに競い合うことを推進するというものだ。
 
 生徒の競争は、ここでは扱わない。長くなり過ぎる。
 
 競争原理教育の導入理由は、もちろん、そうすることで教育がよくなるというものだ。大雑把に言うと、以下のような理由のようだ。

 ・教育現場には悪しき平等主義がはびこっていて教育をダメにしている。競争原理でそれを打破せよ。
 ・お互いに競い合うことで切磋琢磨され力量が伸び、教育全体のレベルが上がる。
 ・生徒保護者はよりよい教育を選択する権利がある。今の教育はそれを許さない。

一方、反対側の主張はと言うと、以下のようなものだろうか。
 ・すべての生徒が等しく教育を受ける権利がある。悪平等主義というのは言いがかりだ。
 ・お互いに競い合うことで疑心暗鬼となり、教育全体のレベルが下がる。
 ・よりよい教育が選択できるのは都市部や裕福な層だけである。イナカや貧乏人には選択そのものができない。

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