ssh491 テレビの見過ぎです(4) [マスコミュニケーション論]
<2011>
テレビの見過ぎですシリーズ(ssh487、ssh488、ssh489)の続き。もう少しだけ、TV的価値観の箇条書きにお付き合いください。
16 TVは相手の気持ちを読む能力を破壊する
これは、ssh368「『子のつく名前の女の子は頭がいい』再評価」の煮返しです。コミュニケーションにおいては情報を発信する側は、受信する側にとって何が必要であるのかをあらかじめ察知し(例えば子どもがオモチャのケーキを持っていれば、それを口に入れるかもしれないと察知すること)、受信者にとって有益な情報(それは食べられないのよと伝えること)をコトが起きる前に発信している。ところがTVコミュニケーションにおいてはチャンネル権を持つ受信者が主役であり、発信する側に不可欠な察知する能力(金原はPassive Languageと呼ぶ)の涵養を阻害してしまう。結果として情報は後出しとなり、何かが起きてから「なぜ◯◯をしておかなかったのだ!」と批判するような情報発信しかできなくなってしまう。
ssh338「あとから理由を探すのはバカでもできる、そんなものは論考でも論評でもない」でも、何かコトが起きてからあれこれ理由をあげつらうことのバカバカしさを指摘しました。しかし、そういう情報の事後発信しかできなくなってしまう人間を、TVは生産している可能性があります。
17 TVは記憶を創作する
TVの訴求力は相当なものです。動画と音声による生々しさは比類がありません。
それゆえ、TVは私たちの記憶を創作してしまいます。甚だしい場合、人間はTVで見たことを、あたかも自分の経験であるかのように誤解することがあります。
んなことあるかって?大アリですよ。
かつて「王貞治は記録に残る選手、長嶋茂雄は記憶に残る選手」というセリフがありました。名言だとされているようですけど、私に言わせりゃ迷言。
長嶋が記憶に残っているのは、TV中継やスポーツニュースや「懐かしの◯◯」みたいな番組で、繰り返し繰り返し映像が流されたからですよ。あれはTVによる教育の成果です。
3月11日のことにしてもそうです。津波の映像を繰り返し見た私は、あれをまるで自分の経験のように感じてしまっています。
しかし、フクイチ(福島第一原子力発電所)の爆発については、それほどリアルに記憶が刷り込まれていません。爆発の瞬間の映像はTVではあまり流れませんでしたから。
どっちかというと、9.11テロのワールドトレードセンタービルに旅客機が突っ込む映像の方がリアルに記憶されています。あれ随分何度も流されましたからね。
王も長嶋も津波もフクイチもWTCも、一度もナマで見たことないという点では同じなんですけど。
18 TVは現状認識をすり替える
記憶を創ることのできるメディアは、現状認識も作り替えてしまいます。
今、ワールドカップバレーが日本で開催されています。開催国ということと、フジテレビの懸命のプロモーションの甲斐あって、会場はかなり大入りとなっています(バレーボールの普及活動についてはフジテレビは昔からよく頑張っていると思います)。地元日本チームへの会場全体の組織的応援は、ピョンヤンのサッカー応援の次くらいに壮観です。
当然フジテレビはリキの入った中継をしています。ニュースや情報番組でも日本チームの活躍を知らせようとしています。声援もVTRも日本側のいい面がたくさん流されます。
すると。試合は完敗なのに、映像は日本のいいとこばっか流れる。何だか負けてるように見えない。
もっと露骨なのは訃報です。有名人が亡くなると、生前の元気な頃のVTRがいっぱい流れる。事故や自殺でもなければ亡くなる直前はあまり活動してませんから、訃報で久しぶりに元気な姿をたくさん見ることになる。
すると。すごく生き生きとした感じが伝わってくるんですよ。全然死んでる感じがしない。まるで華麗なるカムバック。
妙なもんです。
19 TVはズームアップし、ついでにフレームアップもする
バラエティでもドラマでも報道でも何でも、TVの映像はズームアップを多用します。人物なら顔、風景なら特に重要な部分。これはもともと画面があまり大きくなかったTVが編み出した工夫でしょう。こうすることで見る側にとって、とても親切なものになります。
映画はそれほどアップを多用しません。映画館で見て感激したものが、TVで流されるとずいぶんと印象がパッとしないということがよくあります。人物やモノのアップが少ないせいでしょう。逆に、大画面でTVのアップ画面を見ると相当驚きます。最近の大画面TVだと顔のアップは実物以上の巨大顔になります。
長年のクセゆえでしょうか、TVは画面以外でもズームアップを多用します。
記者会見やインタビューであれば、特に印象的なフレーズをズームアップして繰り返し流します。
スポーツやドラマなら、特に目立つ場面を切り取って何回も流します。
ニュースであれば、細かい経緯やありうる可能性の分析などの地味な部分を捨て、顔や被害者の家族の声などをズームアップします。
このズームアップの度が過ぎると、フレームアップと呼ばれる詐術を犯してしまいます。
フレームアップというのは、例えばあるデータのごく一部だけを取出して、そこだけをことさら論じる方法です。例えばssh74「少年犯罪データベース紹介」で引用した青少年の凶悪犯罪発生件数グラフを見ると、昭和30年代をピークに件数は急減し、その後1980年ころから微増しています。このグラフの前半部分をカットし、1980年以降の部分だけを取り上げて「少年犯罪が増加した」と主張する人々がいまだにいます。こういうのがフレームアップの手法です。
フレームアップはTVの専売特許ではなく、新聞もラジオも書籍もやりますけど、TVはかなりクセになっちゃっている感じです。
20 TVはユーザーを支配する
TVが他のメディアと決定的に違うのは、視聴者がTVの都合に合わせねばならないことです。
新聞は読みたい時に読みたい場所で読めばいい。ラジオはプログラムに従って放送されているから新聞ほど自由ではありませんが、音の聞こえる範囲であれば移動は自由です。小型ラジオなら持ち運ぶことも簡単です。
他の大型家電品にしても、たとえば冷蔵庫や洗濯機の前で何時間も過ごすという人はいません。
パソコンはかなりユーザーを支配していますが、それでもいつ、何をどう使うかはユーザーの自由だし、ノートPCなら携帯は簡単です。
TVは違います。TVが初めて家庭にやって来たその日から、ユーザーはTVの都合に合わせて行動してきました。
まずTVは大きく重く、アンテナや電源コードの接続のため簡単に移動できない。さらに映像メディアであるため、よく見える場所にいなくてはならない。番組は放送局の定めたプログラムに従って送られる。
TVを見たかったら、人間の方がTVの都合に合わせて、身体をTVの前に持ってこなくてはならない。
TVは、いきなり茶の間=リビングルームの王座にデンと座り、住人を従えたのです。
その後小型TVやビデオなどが開発され、TVの見方は自由になるはずでした。しかし実際にはそうなっていない。大画面TVやCS放送など、やっぱり家でTVを楽しみたいという環境は相変わらずです。実際、建築士が家の間取りを考える時、リビングのどこにTVを置くのかはほとんど最優先課題です。薄型TVの登場でリビングの設計方針が変わったくらいです。