ssh592 消費する喜び、生産する喜び [志望理由・進路選択]
<2013>
ここ数年、教育現場でにわかに流通するようになった言葉に「キャリア教育」というのがあります。
文部科学省は2013年度高校入学生より、キャリア教育の本格実施を予定しています。今、日本中の高校がその全体計画書を作成している最中であるはずです。
かくいう私は、勤務校でそのキャリア教育全体計画書を作成するお仕事を担当しております。えらいこっちゃ。
一体、キャリア教育とは何ぞや?
文部科学省のHPを見てみますと、こうあります。
◆◆今、子どもたちは、将来、社会的・職業的に自立し、社会の中で自分の役割を果たしながら、自分らしい生き方を実現するための力が求められています。
この視点に立って日々の教育活動を展開することこそが、キャリア教育の実践の姿です。
学校の特色や地域の実情を踏まえつつ、子どもたちの発達の段階にふさわしいキャリア教育をそれぞれの学校で推進・充実させましょう。◆◆
んー、わかるようなわからないような。メッセージがあるような、何も言っていないような。
「この視点に立って」計画書を作成せねばならないわけですね、私は。ええ、ちゃんとやってますよ。仕事ですから。
故・松田道雄は『われらいかに死すべきか』(絶版)の中で、教育の目的は世の中で食って行けるようにすることと、その子の天分を発掘することの2つに絞られると述べています。
それ以前もそれ以後も、数多の人がいろんな言説を述べていますが、学校教育を終えて社会に出て行く青年たちに身につけさせるべきことは、この2点にほぼ収斂されると思います。
1つは、仕事をもらえる人間になること。他者から必要とされる人間になること。
もう1つは、自分のやりたい事を見つけること。生きる喜びを見つけられる人間になること。
ただ、この2つは、本来は相反するものです。
前者は、働いてゼニをもらえる人間になるということです。他者のためになる人間になるということ。イヤな仕事でもガマンして働けるということでもあります。
後者は、自分の喜びのために何かをするということです。好きなことをやるということ。好きなことが仕事になる保証はありません。
ですが、この2つは、ある程度両立します。
この記事はそのへんを考えてみようという狙い。
キーワードは「生産」です。
以前、次男に「やりたいこと」を聞いたら「ゲーム」と即答されて怒ったという話を書きました。(ssh329「仕事の定義」)
その記事は、ゲーマーはゲームが仕事だけれど、息子のゲームは仕事じゃない。その違いは他者にとって価値のある行為であるかどうかにあると私は述べました。
これにもうちょい補足すると、こんな風に考えられます。
ゲーマーのゲームは、生産行為である。
息子のゲームは、消費行為でしかない。
消費は、仕事にはなりません。当然です。消費なんですから。ひたすら身銭を切るだけ。消費は「持ち出し」です。
生産は、もちろん仕事になり得ます。こっちは説明不要でしょう。
仕事の喜びというのは、生産する喜びのことです。
農作物を育てる。モノを作る。何かを開発する。土地を整地する。動物の世話をする。育児をする。絵を描く。音楽を演奏する。人にものを教える。人のために何かをする。書類を作る。掃除をする。料理をする。整理整頓をする。
こういった生産行為は、もちろん面倒臭いことも多いけれど、楽しみもあります。
実際、楽しいでしょ?時間とか体力とかの問題さえなければ、家事も育児も仕事もそれそのものはけっこう楽しいですよ。
その楽しみが、仕事の喜びです。
一方、世の中には消費の喜びを謳歌しましょうという宣伝が洪水のごとく押し寄せています。
新しい洋服・低燃費エコカー・海外旅行・グルメ・健康食品・パソコンにスマホ・ゲーム・映画・ショッピング等々。
1980年以降の日本は、大量消費社会となり、人生の幸せ=消費する喜びとなりました。好きなことにお金を使うのが日本の幸福実感方法です。
今、キャリア教育で一番何とかしないといけないのは、この部分なのじゃないかと私は思っています。
大量消費社会で育った私たちとその子どもたちは、「やりたいこと」のほとんどが消費行為となっている。いいモノを買ったり食べたりどこかに旅行に行ったりすることこそが人生の喜びであって、そういうことのない人生など生きるに値しないと。
でも、消費は消費です。消費は決して仕事にはなりません。
消費の喜びが生産の喜びを越えた時、仕事は消費のためのゼニを稼ぐためにガマンしてやるだけの行為に成り下がります。
自分たちにも、子どもたちにも、もっと、生産することの喜びをアピールしなきゃいけないんじゃないでしょうか。
何かを作ること、人のために何かをすること、それは楽しいことである。喜びを得られるものである。そういうことを、お互い再確認すべきじゃないかと思うんですよ。
人は消費のみに生きるにあらず、ですよ。