ssh1016 いじめは犯罪か [教育問題]
ssh17を再編して再録します。
今回はいじめ問題について考えます。
ものを考えるとは、問うこと。
いい「問い」が立てられるかどうか。それが「考える力」です。これはsshの一貫した姿勢です。
その姿勢に則って、いじめ問題に対し、いろいろな問を立て、考察していきます。
問 その1:「いじめ」はあってはならないのか?(あえて正反対の立場を取る問い)
いじめを「よいこと」と断言する人はいないでしょう。ない方がいいに決まってる。
では「いじめはあってはならない」と断言していいものなのか?
「ない方がいい」というのと、「あってはならない」というのは、ずいぶんと違います。
「ない方がいい」というのは、ないに越したことはないが、ゼロは難しいから、なるべく少なくすべきだということです。
交通事故も夫婦喧嘩も仕事のミスもないに越したことはない。でも、人間はミスをするものです。ゼロにはならない。
「あってはならない」というのは、1件もあってはいけない=1件でも発生するのは許されないということです。核戦争なんてのはまさに「あってはならない」ものでしょう。
果たして「いじめ」は、ただの1件の発生もあってはならないものなのでしょうか。と言うか、そもそもそんなことが可能なのでしょうか?
問い その2:「いじめ」はゼロにできるのか?(極端な問い)
この問いに説得力ある理由をもってYesが答えられれば、「いじめはあってはならない」という意見は説得力を持ちます。「教師がヘボいからいけないのだ」というのでは説得力はありません。教師がヘボいからいじめが起きるという意見が仮に正しいとして、それだけでは「教師が良ければいじめはゼロになる」ということを立証することはできません。数学で言うところの「逆は必ずしも真ならず」で、教師が完璧でもなおかつ起きる可能性が否定されていないからです。
さらに言えば、いじめは人間以外の動物の集団でも起こることがすでにわかっています。草食獣の群れでもストレスが高まると弱い仲間をいじめて殺すことが明らかになっています。いじめは人間だけの行為ではありません。
「いじめはあってはならない」と声高に主張する人々は、この「問その2」にまともな回答をしたことがありません。
問い その3 :そもそも「いじめ」とは何なのか?
教育行政の定義は「被害者がいじめと感じれば、それはいじめである」というもののようです。被害者の気持ちを尊重した言い方です。
しかし、これがまた難しい。
「感じる」というのはものすごく主観的な行為だから、十人十色の反応がありうる。それに、仮に「感じた」としても、それを他人に伝えてくれるとは限らない。むしろ、いろんな理由で伝えてくれない可能性の方がずっと高い。「あなたはいじめられいると感じていますか」なんて質問して、「はい」と答えてくれることなんかまずない。
「悩んでいる子どもはいつもと違う。そのサインを見抜くのが親や教師の仕事だ」と声高に言ってみたところで、日常子どもと接していれば365日「いつもと同じ」ことの方がよっぽどめずらしい。早期発見を目指してあれこれ詮索して子どもにソッポを向かれる危険だってある。
ある問題があった場合、それが「いじめ」か否かを判断するのはすごく難しい。結局は結果の悲惨さ(自殺した、など)で量られてしまう。
ひどいいじめの場合、加害者が警察に捕まる場合もあります。そうなって初めて「警察に捕まるほどひどいいじめだったのか」とニュースを見ながら思ったりするものです。
ところで。
加害者は、どういう理由で逮捕されたんでしょうか?
逮捕容疑が「いじめ」なんてことはありえません。
問 その4:「いじめ」は犯罪か?
答えは「NO」です。明確です。法律上「いじめ」という犯罪は存在しません。
いじめの加害者が逮捕されたのは、傷害罪や恐喝罪や脅迫行為の容疑で逮捕されているのです。
もしかしたら、これがいじめ問題の議論をあやふやにしている理由ではないでしょうか?
「いじめ」は、犯罪扱いできない。
これは社会の中では無理からぬことでしょう。仲間はずれや無視(シカト)をいちいち犯罪扱いすることは不可能です。
犯罪であれば力づくで抑え込まねばならない。しかし犯罪でないものには、道義的倫理的に立ち向かうしかありません。
ここいらへんに、「いじめ」に対する対応の1つの答えがあるかもしれません。
これは私自身の仮説=新たな問いですが、
「いじめをなくすことは、多分、できない。しかし、いじめの中の犯罪行為(暴行、恐喝、脅迫、自殺に追い込む)は何としても防ぐ必要があるのではないか?」
今回はいじめ問題について考えます。
ものを考えるとは、問うこと。
いい「問い」が立てられるかどうか。それが「考える力」です。これはsshの一貫した姿勢です。
その姿勢に則って、いじめ問題に対し、いろいろな問を立て、考察していきます。
問 その1:「いじめ」はあってはならないのか?(あえて正反対の立場を取る問い)
いじめを「よいこと」と断言する人はいないでしょう。ない方がいいに決まってる。
では「いじめはあってはならない」と断言していいものなのか?
「ない方がいい」というのと、「あってはならない」というのは、ずいぶんと違います。
「ない方がいい」というのは、ないに越したことはないが、ゼロは難しいから、なるべく少なくすべきだということです。
交通事故も夫婦喧嘩も仕事のミスもないに越したことはない。でも、人間はミスをするものです。ゼロにはならない。
「あってはならない」というのは、1件もあってはいけない=1件でも発生するのは許されないということです。核戦争なんてのはまさに「あってはならない」ものでしょう。
果たして「いじめ」は、ただの1件の発生もあってはならないものなのでしょうか。と言うか、そもそもそんなことが可能なのでしょうか?
問い その2:「いじめ」はゼロにできるのか?(極端な問い)
この問いに説得力ある理由をもってYesが答えられれば、「いじめはあってはならない」という意見は説得力を持ちます。「教師がヘボいからいけないのだ」というのでは説得力はありません。教師がヘボいからいじめが起きるという意見が仮に正しいとして、それだけでは「教師が良ければいじめはゼロになる」ということを立証することはできません。数学で言うところの「逆は必ずしも真ならず」で、教師が完璧でもなおかつ起きる可能性が否定されていないからです。
さらに言えば、いじめは人間以外の動物の集団でも起こることがすでにわかっています。草食獣の群れでもストレスが高まると弱い仲間をいじめて殺すことが明らかになっています。いじめは人間だけの行為ではありません。
「いじめはあってはならない」と声高に主張する人々は、この「問その2」にまともな回答をしたことがありません。
問い その3 :そもそも「いじめ」とは何なのか?
教育行政の定義は「被害者がいじめと感じれば、それはいじめである」というもののようです。被害者の気持ちを尊重した言い方です。
しかし、これがまた難しい。
「感じる」というのはものすごく主観的な行為だから、十人十色の反応がありうる。それに、仮に「感じた」としても、それを他人に伝えてくれるとは限らない。むしろ、いろんな理由で伝えてくれない可能性の方がずっと高い。「あなたはいじめられいると感じていますか」なんて質問して、「はい」と答えてくれることなんかまずない。
「悩んでいる子どもはいつもと違う。そのサインを見抜くのが親や教師の仕事だ」と声高に言ってみたところで、日常子どもと接していれば365日「いつもと同じ」ことの方がよっぽどめずらしい。早期発見を目指してあれこれ詮索して子どもにソッポを向かれる危険だってある。
ある問題があった場合、それが「いじめ」か否かを判断するのはすごく難しい。結局は結果の悲惨さ(自殺した、など)で量られてしまう。
ひどいいじめの場合、加害者が警察に捕まる場合もあります。そうなって初めて「警察に捕まるほどひどいいじめだったのか」とニュースを見ながら思ったりするものです。
ところで。
加害者は、どういう理由で逮捕されたんでしょうか?
逮捕容疑が「いじめ」なんてことはありえません。
問 その4:「いじめ」は犯罪か?
答えは「NO」です。明確です。法律上「いじめ」という犯罪は存在しません。
いじめの加害者が逮捕されたのは、傷害罪や恐喝罪や脅迫行為の容疑で逮捕されているのです。
もしかしたら、これがいじめ問題の議論をあやふやにしている理由ではないでしょうか?
「いじめ」は、犯罪扱いできない。
これは社会の中では無理からぬことでしょう。仲間はずれや無視(シカト)をいちいち犯罪扱いすることは不可能です。
犯罪であれば力づくで抑え込まねばならない。しかし犯罪でないものには、道義的倫理的に立ち向かうしかありません。
ここいらへんに、「いじめ」に対する対応の1つの答えがあるかもしれません。
これは私自身の仮説=新たな問いですが、
「いじめをなくすことは、多分、できない。しかし、いじめの中の犯罪行為(暴行、恐喝、脅迫、自殺に追い込む)は何としても防ぐ必要があるのではないか?」
2016-09-20 22:00
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