ssh1018 能動情報と受動情報 [リテラシー・思考力]
<ssh214再編>
いきなり結論から書いてみます。
こちらから動かなくても向こうからどんどんやってくるような情報に、ロクなものはない。
今回は、こういうテーマのお話です。
この世の中に、ネットやテレビやラジオはもちろん、新聞も本もなかったころ、人は自分の身の回りのことだけを知っていれば良かったはずです。自分の家族や部族のこと、その周辺の地域の地形や自然のこと、生きていくために必要な仕事のハウツーなど。
ただし、それは知っていないと絶対に生きていけないものでもあったでしょう。必要なのは少量の情報だが、それは必要不可欠な、何としてもモノにしなければならない内容だった。その情報の伝達は、直接のコミュニケーションでしか行えなかった。
状況を劇的に変えたのは、恐らく大量印刷技術。印刷物を素早く大量に生産することによって、一つの情報を大量の人間にバラまくことができるようになった。
さらに鉄道や海運の発達は印刷物を遠方に運ぶことを可能にします。
その後も、より多くの、より様々な情報を大量に送れるように、人は技術を進歩させました。巨大コミュニケーション、つまりマスコミュニケーションへの道です。
ラジオとテレビの登場で、マスコミュニケーションは飛躍的に発展します。
そして現代のネット。
大量の情報を大量の人に伝える媒体=マスメディアの伝達能力は、ものすげえことになっています。
おかげで、現代人は情報の洪水に投げ出される運命にあります。
学校の勉強だって、今やマスメディア抜きには考えられません。小論文はもちろん、国語や英語や社会で扱われる題材は、どれもこれも世界中のニュースと関わっています。
もちろん大人は大人で、いろんなことを知らないといけません。
民主主義社会を運営する上で不可欠な選挙だって、立候補者を日頃からよく知っている人なんて少数です。私ゃTVや新聞なんかでしか知りません。政策だのマニフェストだの、みーんなマスメディアを通じてようやく手に入るものです。
しかし。
マス(大量)ってくらいですから、流される情報量はものすごい。とても全部は消化しきれません。
で、全部消化する必要もない。本当に必要な情報は、案外少ないものです。知らなきゃ知らないで、それなりに生きられます。投票だって政策やマニフェストをよく知らなくたってできます。その結果はまあ…、だったりしますが。
「情報化社会」という言葉は1970年代にさかんに使われました。で、それに対する対応方法としてよく言われたのが情報の取捨選択です。
大量の情報から、自分に必要な情報を選び取ること。そのためには、情報を取捨選択する確かな眼を育てる必要があると。
いや、ごもっとも。異論ございません。
でもねえ。本当に面倒くさいんですよ、情報の取捨選択。
例えば、新聞から、自分に必要な情報を選び取ろうとすると、1面からテレビ欄までのぜーんぶの面に、一応目を通さなきゃなりません。新聞は広告だらけですからね。広告の隙間から記事を探さないと。日曜日なんてオマケ紙面まで含めると30面以上ありますからね、一苦労です。しかも、本当に必要な記事は、地味な扱いであることが多い。ボケッとしてると見逃します。
これがTVとなるとさらに大変。コマーシャルやらワイドショーやらバラエティやらの隙間から、欲しい情報を探さないといけない。
ネットなんて、もう絶望的に大変です。グーグルなんか使ったって、なかなか欲しい情報にたどりつけません。そのくせ、スポンサーサイトやエロサイトはすぐに見つかります。
大量の情報は、チェックするだけで大仕事です。
これがお勉強や仕事のためなら、まあガマンしてやるにしても、そうでなけりゃ、たいがい放棄しちゃうでしょう。
それにしても、必要な情報は、なぜこんなにも探しにくいんでしょうかね?
もちろん、情報の総量が多いことは大きな理由です。
ただ、こと「量」に限って言えば、送られる情報の量の配分は送り手の都合で決められるのが現実です。
一番多いのはコマーシャルやらエロやら政府公報やらキャンペーンやらの、いわば商売情報、つまり送る側が自分の利益のために送ってくる情報です。
商売ですから、それはもう、ジャンジャカ送ります。全国紙の全面広告は1回で数千万円です。某化粧品メーカーは新しいシャンプーの宣伝に数十億円使ったそうです。利益になるならジャンジャカ送るわけです。
次に多いのは、需要の多い情報。トップニュースとかバラエティーとかハヤリものの情報。資本主義社会ですからね、情報も商品です。商品価値が高い=需要が多い、と送り手が判断したものは、大量に流されます。
こういう情報は、何気なく新聞やTVを眺めているだけで怒濤の如くおし寄せます。受け手の私たちが何もしなくても、勝手に送り込まれます。こちらから動かなくても向こうからどんどんやって来る情報です。
こちらから動かなくても向こうからどんどんやってくるこうした情報を受動情報と名付けてみます。
一方、自分に必要な情報は、必ずしも送り手の都合とは一致しません。受け取る側としては、受け手の都合に合わせた情報が欲しい。
ところが、情報量は、送り手の都合に委ねられている。送り手が送りたいおびただしい量の商売情報や高商品価値情報の隙間から自分に必要な情報を探し出さないといけない。
こちらが積極的に動かないと、とても見つけられません。
こちらから動いて手に入れる情報は能動情報と名付けてみます。
受動情報は、送り手の利益にかなった情報です。受け手の利益になるかどうかは、運次第です。
能動情報は、受け手が自分の利益のために選ぶ情報です。受け手の利益となる可能性が高いです。
ただし、いい情報を得られないこともあるし、得たと思ったらハズレだったということもあります。
日頃、なんとなく日常を過ごしていると、受動情報ばかりが入ってきます。
受動情報はもともと送り手の利益のための情報です。ごくたまに役立つものが混じってますが、所詮ごくたまにだけ。
冒頭の結論、「こちらから動かなくても向こうからどんどんやってくる情報に、ロクなものはない」というのは、そういう情報は受動情報であって、送り手の利益情報でしかないからです。
自分にとって、本当に必要な、本当の利益になる情報は、自分から動いて探すしかありません。
めんどっくさいですが、ま、仕方ありません。さもないと受動情報の奴隷になっちまいますからね。
やっぱり、得やすいものは失いやすいというか、簡単に手に入るものはあんまりいいものがないんですよ。
いきなり結論から書いてみます。
こちらから動かなくても向こうからどんどんやってくるような情報に、ロクなものはない。
今回は、こういうテーマのお話です。
この世の中に、ネットやテレビやラジオはもちろん、新聞も本もなかったころ、人は自分の身の回りのことだけを知っていれば良かったはずです。自分の家族や部族のこと、その周辺の地域の地形や自然のこと、生きていくために必要な仕事のハウツーなど。
ただし、それは知っていないと絶対に生きていけないものでもあったでしょう。必要なのは少量の情報だが、それは必要不可欠な、何としてもモノにしなければならない内容だった。その情報の伝達は、直接のコミュニケーションでしか行えなかった。
状況を劇的に変えたのは、恐らく大量印刷技術。印刷物を素早く大量に生産することによって、一つの情報を大量の人間にバラまくことができるようになった。
さらに鉄道や海運の発達は印刷物を遠方に運ぶことを可能にします。
その後も、より多くの、より様々な情報を大量に送れるように、人は技術を進歩させました。巨大コミュニケーション、つまりマスコミュニケーションへの道です。
ラジオとテレビの登場で、マスコミュニケーションは飛躍的に発展します。
そして現代のネット。
大量の情報を大量の人に伝える媒体=マスメディアの伝達能力は、ものすげえことになっています。
おかげで、現代人は情報の洪水に投げ出される運命にあります。
学校の勉強だって、今やマスメディア抜きには考えられません。小論文はもちろん、国語や英語や社会で扱われる題材は、どれもこれも世界中のニュースと関わっています。
もちろん大人は大人で、いろんなことを知らないといけません。
民主主義社会を運営する上で不可欠な選挙だって、立候補者を日頃からよく知っている人なんて少数です。私ゃTVや新聞なんかでしか知りません。政策だのマニフェストだの、みーんなマスメディアを通じてようやく手に入るものです。
しかし。
マス(大量)ってくらいですから、流される情報量はものすごい。とても全部は消化しきれません。
で、全部消化する必要もない。本当に必要な情報は、案外少ないものです。知らなきゃ知らないで、それなりに生きられます。投票だって政策やマニフェストをよく知らなくたってできます。その結果はまあ…、だったりしますが。
「情報化社会」という言葉は1970年代にさかんに使われました。で、それに対する対応方法としてよく言われたのが情報の取捨選択です。
大量の情報から、自分に必要な情報を選び取ること。そのためには、情報を取捨選択する確かな眼を育てる必要があると。
いや、ごもっとも。異論ございません。
でもねえ。本当に面倒くさいんですよ、情報の取捨選択。
例えば、新聞から、自分に必要な情報を選び取ろうとすると、1面からテレビ欄までのぜーんぶの面に、一応目を通さなきゃなりません。新聞は広告だらけですからね。広告の隙間から記事を探さないと。日曜日なんてオマケ紙面まで含めると30面以上ありますからね、一苦労です。しかも、本当に必要な記事は、地味な扱いであることが多い。ボケッとしてると見逃します。
これがTVとなるとさらに大変。コマーシャルやらワイドショーやらバラエティやらの隙間から、欲しい情報を探さないといけない。
ネットなんて、もう絶望的に大変です。グーグルなんか使ったって、なかなか欲しい情報にたどりつけません。そのくせ、スポンサーサイトやエロサイトはすぐに見つかります。
大量の情報は、チェックするだけで大仕事です。
これがお勉強や仕事のためなら、まあガマンしてやるにしても、そうでなけりゃ、たいがい放棄しちゃうでしょう。
それにしても、必要な情報は、なぜこんなにも探しにくいんでしょうかね?
もちろん、情報の総量が多いことは大きな理由です。
ただ、こと「量」に限って言えば、送られる情報の量の配分は送り手の都合で決められるのが現実です。
一番多いのはコマーシャルやらエロやら政府公報やらキャンペーンやらの、いわば商売情報、つまり送る側が自分の利益のために送ってくる情報です。
商売ですから、それはもう、ジャンジャカ送ります。全国紙の全面広告は1回で数千万円です。某化粧品メーカーは新しいシャンプーの宣伝に数十億円使ったそうです。利益になるならジャンジャカ送るわけです。
次に多いのは、需要の多い情報。トップニュースとかバラエティーとかハヤリものの情報。資本主義社会ですからね、情報も商品です。商品価値が高い=需要が多い、と送り手が判断したものは、大量に流されます。
こういう情報は、何気なく新聞やTVを眺めているだけで怒濤の如くおし寄せます。受け手の私たちが何もしなくても、勝手に送り込まれます。こちらから動かなくても向こうからどんどんやって来る情報です。
こちらから動かなくても向こうからどんどんやってくるこうした情報を受動情報と名付けてみます。
一方、自分に必要な情報は、必ずしも送り手の都合とは一致しません。受け取る側としては、受け手の都合に合わせた情報が欲しい。
ところが、情報量は、送り手の都合に委ねられている。送り手が送りたいおびただしい量の商売情報や高商品価値情報の隙間から自分に必要な情報を探し出さないといけない。
こちらが積極的に動かないと、とても見つけられません。
こちらから動いて手に入れる情報は能動情報と名付けてみます。
受動情報は、送り手の利益にかなった情報です。受け手の利益になるかどうかは、運次第です。
能動情報は、受け手が自分の利益のために選ぶ情報です。受け手の利益となる可能性が高いです。
ただし、いい情報を得られないこともあるし、得たと思ったらハズレだったということもあります。
日頃、なんとなく日常を過ごしていると、受動情報ばかりが入ってきます。
受動情報はもともと送り手の利益のための情報です。ごくたまに役立つものが混じってますが、所詮ごくたまにだけ。
冒頭の結論、「こちらから動かなくても向こうからどんどんやってくる情報に、ロクなものはない」というのは、そういう情報は受動情報であって、送り手の利益情報でしかないからです。
自分にとって、本当に必要な、本当の利益になる情報は、自分から動いて探すしかありません。
めんどっくさいですが、ま、仕方ありません。さもないと受動情報の奴隷になっちまいますからね。
やっぱり、得やすいものは失いやすいというか、簡単に手に入るものはあんまりいいものがないんですよ。
2016-09-30 20:54
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