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ssh119 ヤンキー先生と民間人校長と矢ガモ(4) [三題噺]

<2007>

 実は、私の勤務する県にも、鳴り物入りで採用されたお二方の民間人校長がおります。
 ただ、その評価は結構対照的なようです。

 考えてみれば、民間人出身なら必ず学校運営がうまくいくなんて、そんなことあるハズもないでしょう。全国的に見ても、民間人校長の評価は、まったく個々バラバラなようです。
 つまり、いい人はいいし、そうじゃない人はそうじゃない。うんと評価される人もいれば、任期中途でケツまくっちゃった人もいます。
 名選手、必ずしも名監督ならず。民間人校長、必ずしも名校長にあらず。

 当たり前です。
 どんな仕事だって、元○○なら必ずいい××になれるなんて、そんな甘いもんじゃないです。

 私はssh115で、ヤンキー先生が10年20年と現場で教員を続けて、なおかつヤンキー先生と呼ばれるものだろうかと書きました。 
 ssh116では、矢ガモは矢が抜けたら誰にも注目も同情もされないというコメントを紹介しました。
 ssh118では、私はこう断言しました。
 「民間人校長は民間人ではありません。民間人校長は校長先生です。」

 数年前、腕利きヘッドハンターのインタビュー記事を読みました(名前忘れました、ゴメン)。
 「転職して成功する人の条件は何ですか?」という聞き手の質問に対して、彼はこう答えています。

 「新しい職場を愛すること。」

 もっとも失敗するのが、いわゆる「出羽のカミ」。
 「○○では・・・」と、何かとこれまでの経験ばかり吹聴する人は、ダメだと言うんです。
 実際に多くの転職を見てきた人の言うことですから、たぶん間違いないでしょう。

 つまり。
 民間人から学校長に転身した以上、いつまでも「民間人」のつもりでいちゃあいけないんです。
 転身した以上、その仕事で功を成すべきなのです。
 民間人出身であろうとなかろうと、いい校長先生にならねばならないのです。いつまでも民間人校長などと呼ばれていちゃいけないんです。「○○先生って、いい校長先生だよね。え?あの人、民間人出身なんだ。へえ。」と言われるくらいになるべきなんです。

 ヤンキー先生が、いつまでもヤンキー先生などと呼ばれて喜んでいちゃいけないんです。先生になった以上、いい先生にならねばならんのです。「へえ、あのいい先生がねえ、元ヤンキーだったの。」と言われるようになるべきなんですよ。

 矢ガモは、矢が刺さっていて初めて人からの注目と同情を受けます。
 矢が抜けてケガが治れば、一人前のカモとして生活できますが、もはや誰からも注目も同情も受けません。矢のない矢ガモは、ただのカモです。
 もし矢ガモがその注目と同情を維持したければ、矢を抜くことはできません。
 しかしもちろん、矢を抜かなければ、いつまでの半人前の手負いのカモです。
 半人前の手負いでも、注目と同情を得るか?
 誰にも注目されなくても、一人前のカモとして自立するか?
 私は、矢ガモの選ぶべき道は、後者であると強く信じます。
 矢ガモは、自立して一人前の普通のカモになるべきなのです。
 
 ヤンキー先生の「ヤンキー」、
 民間人校長の「民間」。
 これは、矢ガモの「矢」のようなものではないのでしょうか?
 
 彼らが本当に羽ばたくためには、「ヤンキー」や「民間人」という「矢」をあえて抜き取らねばならない。私はそう考えます。
 そうして、メディアの注目をまったく集めない、ただの「先生」や「校長」になるべきなのです。

 世間の注目よりも、生徒のごくごく些細な成長がうれしい。
 そう感じられるようになったら、
 ただの先生や校長として、教育といういたって地味な仕事に没頭できるはずです。
 矢ガモの矢は、誰かが抜いてあげないと抜けませんが、人間は自分に刺さった矢を自分で抜くことができます。

 ヤンキー先生と民間人校長と矢ガモのお話は、これでおしまいです。
 いや〜、それにしても長くなっちゃったなあ。

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