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ssh336 思考停止じゃなくて、認識できない [リテラシー・思考力]

<2010>

 

 「おとなの小論文教室」の山田ズーニー氏が、抽象をまったく理解できない学生の話を書いていました。

 それは大学の先生からの伝聞情報だったんですが、若い学生さんたちにちょっと難しい文章を読ませると、その要旨がまったく理解できないと。

 より詳しく言うと、文中の具体例や比喩は理解していて、それには反応するのだけれど、その具体例や比喩を使って筆者が伝えようとした主題をまるで理解してもらえない。

 自分に理解しやすい部分には反応するし、誠実に理解しようとする。

 ところが、具体から導かれる抽象の部分になると、パタリと思考が止まってしまう。

 山田氏は常々「相手に伝わる」表現を目指している人であるだけに、これがかなりグサっときたようです。「相手にわかりやすく伝える」ことが、常に正義とは限らないのではないかと。

 

 ここで話は急にパソコン話に飛びます。

 私は自宅ではiMacユーザーで、この記事もiMacで書いています。一方、職場ではWindows Vista7のキカイを使っています。

 パソコンのOSってのは、対応していないものはにべもなく拒否します。パソコンに限らず、ケータイでも何でも、デジタルのキカイというのは、認識できないものはあっさり拒否します。

 ファイルが認識してもらえないと「てめーこのやろー!」と怒りたくなってきます。なりますけど、キカイにゃ悪意はありません。認識できないんだから、認識できないとしか返事ができない。

 

 ところで、「思考停止」と呼ばれる状態ですけど、あれ案外、こういうものなんじゃないかな?と最近思い始めているんです。


 

 思考停止という言葉は、「思考を停止している」「頭を使っていない」「考えることをサボっている」という意味で使われているように思います。


 例えば一般の人に政治や外交の話題についての意見をインタビューすると、誰もがあたりさわりのないコメントや中央メディアのよく言うような話を繰り返すだけになる。自分で考えるという行為をピタリと止めて、借り物の言説でお茶を濁す。


 


 思考停止というのは、私もずっとそういう「思考をサボっている」という意味で使っていました。


 でも、もしかしたら、そうじゃない。


 


 思考を停止しているのではなくて、思考が自動的に停止してしまった。


 頭を使っていないのではなく、使いたいけれど頭が動かなくなってしまった。


 考えることをサボっているのではなく、考えるという動作のスイッチが切れてしまった。


 


 より正確に言えば、その話題は認識ができない。


 「わからない」のではなく、認識ができない。


 そういう話題が世の中には存在しているということ自体が、認識できない。


 あるかないかすら、認識できない。


 まるで、MacWindows用のソフトをまったく認識しないように。


 


 


 冒頭の抽象を理解できない学生であれば、彼ら彼女らはちゃんと文章を読んでいる。読んで理解しようとしている(今時の学生は昔と違って真面目です)。何とか理解しようと思って、努力して読んでいる。だから、具体的な記述は理解できる。


 なのに、抽象的な記述部分になると、ピタリと認識不能になる。目の前の言葉は、OS不対応のファイルのような、単なる信号の羅列のような存在となる。


 認識できないから、スキップして認識できる別の部分に行くしかない(ここはPCと違って人間は融通が効く)。結果、具体例だけを拾うことになる。


 


 


 ネットのBBSやブログコメント欄には、見るに耐えないような罵詈雑言のぶつけ合いがあふれています。特に多いのはウヨサヨのイデオロギー(ってほど立派なもんじゃないけど)のぶつかり合い。


 あれ、こういうのが原因なんじゃないかと思うんです。


 つまり、サヨはウヨの言説が認識できない。ウヨやサヨの言説が認識できない。目の前に並んでいる言葉は一応日本語だから読めることは読めるが、その意図するところが認識できない。これ、ブログのコメント欄に顕著です。


 記事を通して読んだ上でコメント欄に目をやると「なんでこーゆー雑言が出てくるの?」と理解に苦しむようなコメントがいっぱいあります。記事の主旨を理解せず、枝葉のような文言に過剰反応してくる。


 


 ああいうコメントにはひどく悪意があると感じていたんですけど、最近では、もしかしたら悪意なんかないんじゃないかと思うようになってます。


 つまり、筆者が伝えようとした一番の部分=具体ではない抽象的な意見や概念、これが認識できないだけなのじゃないかと。


 主旨たる意見概念の部分にぶつかると、まるで別のOS用のファイルのように、まったく受け付けることができない。「このファイルは認識できません」と、思考が自動的に停止する。


 認識できないから、認識できるところだけを拾い読みする。いきおい、些細な文言にばかり反応する。


 


 


 「認識できない」というのは「わからない」というのとは違います。


 「わからない」というのは、認識はできるけれど、その意味内容が理解できないということです。


 ファイルそのものには問題はない。それに対応できないのは自分の対応力が弱いからである。


 「わからない」というとき、人は恥じらいを覚える。


 わからないのは、自分が非力だからである。自分が勉強が足りないからである。私は未熟者です、と。


 恥じ入っているから、罵詈雑言を返したりはしません。


 


 「認識できない」というとき、コンピューターは何の恥じらいも表明しません(当たり前か)


 「このファイルは認識できません」と画像に出すだけ。あたかも「こんなファイルをオレに読ませたアンタが悪い」とクレームをつけるように。


 「認識できない」のは、認識する側の責任ではないのです。


 オレorアタシは悪くない。こんなファイルを与えた側が悪い。


 となれば、恥ずかしげなくいくらでも罵詈雑言が言えます。だって自分は悪くないんだから。


 


 


 思考停止というのは、思考力の問題というより、リテラシー(読解力)の問題なのかもしれません。


 となれば、リテラシーを鍛えることが、思考停止を防ぐ方策ということになる。


 しかしこれがまた悩ましい。


 


 生徒のリテラシーを高めるためには、抽象的な概念や小難しい物言いを読む必要がある。


 もちろんそれらは難しい。だから指導者はそれらを生徒に理解できるように指導しなくてはならない。


 しかし、あまり親切にしすぎてもいけない。親切すぎると、一番重要な「具体から抽象へのジャンプ」の経験が減ってしまう。でも、最初は助力してあげないとジャンプできない。


 どのくらいまで助力して、どのあたりから自力でやらせるか。このへんのさじ加減は一般論にはなりません。あくまで個別具体的な対応。


 


 


 生徒を指導するというのは、例えばこういう悩ましい問題の連続なのです。何十年やっても正解なんかありません。


 学校の仕事にまったく関係したことのない人にはそれこそ「認識できない」ような話題でしょうけど。


 


 


 


 


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