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ssh323 1Q84と読売日本とトヨタ主義人民共和国(1) [三題噺]

<2010>

 

 まったく読んでないんですよ、『1Q84』。

 何を隠そう、私は名作オンチでして、名作とか古典とかベストセラーとか言われる小説を読んだことがほとんどありません。

 いや実は、そもそも小説ってほとんど読まないんですよ。

 なぜ?ってよく聞かれるんですけど、「楽しくないから」としか答えようがなくて。恥ずかしげに。

 な~んかねえ、小学校時代の「みなさん、本を読みましょう!」というアレがいまだに原罪意識みたいに抜けないんですよ。

 いや、書籍を読むのはキライじゃないんですよ。でも、私が好んで読むのは評論とか技術論とか図鑑とか辞典とか、そんなのばかりで。小学校以来「読書=物語を読むこと」と信じ込んでしまった私は(単にそういうものを読まない罪悪感かコンプレックスのせい)、とある出版社の面接試験で「最近読んだ本は何ですか?」と聞かれて「読んでません」と答えて落とされた経験すらあります。本は読んではいたんですけど小説じゃなかったもので、ついコンプレックスが出てしまって。

 

 実を申すと『1Q84』の第1巻が出た時、本気で「アイキュー84」だと思ったんですよ。知能指数にまつわるお話かと。

 で、その後あちこちの書店で平積みの『1Q84』を見ているうちに、装丁のあのQの字が『オバケのQ太郎』みたいに見えてきちゃって(似てるでしょ?)「オバQ84」とか勝手に言ってました。

 

 そういう極めて不真面目な輩なので、その内容はごく最近までまるで知りませんでした。 『1Q84』って、同じ世界の住人だと思ったら実は住んでる世界が違うってお話だったんですか。高橋源一郎氏が『Sight』の鼎談で話しているのを読んでようやく理解しました。

 彼によると、勤務先の大学の学生と自分とでは、物理的には同じ時間と空間に生きているのだけれど、感覚や背負っているものが全然違っている。そのギャップに当惑していたけれど、彼らが1984年ではなく1Q84年の住人なのだと考えるとすごくつじつまがあってきたと。

 

 分かりやすい話、私の眼に写っている王貞治と、35歳以下の人の眼に写っている王貞治と、高校生の眼に写っている王貞治は、まったく別のものであるわけです。

 

 

 私にとっての彼はまさにヒーローです。私がプロ野球に興味を引かれた頃には長嶋茂雄はすでに引退直前でしたから、王こそがヒーロー。

 一方、35歳より下の世代から見ると、彼は「ダイエーの監督」でしょう。さらに高校生からすれば、彼はほとんど歴史上の人物、「かつて王貞治という偉大な野球選手がいたらしい」くらいのもんでしょう。

 

 私の母は石原裕次郎のファンでした。彼女にとっての祐次郎は若くて不良でカッコいい祐次郎だと思います。けど、私にとっての石原裕次郎は色黒で中年太りで病気がちの(しかも兄が権力志向むき出しの)大根役者でしかありません。最近になって、彼の若い頃の映像を見ていささか認識を変えましたが、まあそれでも「その時代」を共に生きた人と同様の共感を持てるはずもありません。

 

 こういうのは、まあしかし、世代とか加齢とか時の流れとかいうことからして、当然の帰結です。

 生きてきた時代が違えば、感覚は当然異なります。感覚が異なれば、意思疎通もすんなりとはいきません。近代以前、世の中の変化がゆっくりだった頃には、こういう断絶感は顕在化していなかったのでしょうけれど。

 だから、世代の差によって「生きている世界が違うのだなあ」と感じることは、まあよくあることではあります。

 

 しかし。

 全く同じ時代を、同じ土地で過ごしていても、「ああ、この人(たち)と自分は生きている世界が違うのだなあ」と思うようなこともあります。

 オバQ84のはるか以前に、それを教えてくれたのは、えのきどいちろう氏でした。


 

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