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ssh368 『"子"のつく名前の女の子は頭がいい』再評価 [教育問題]

<2010>

 

 長男が面倒な抜歯手術をするために入院するハメになりまして、2日ほど病院に付き添いました。

 入院と言っても、歯のトラブル以外はいたって健康体なんで、付き添いはヒマです。仕事は、万が一に備えて詰めていることと、「保護者の承諾」を確認するために病院の方の質問に「はい、結構です」と答えて署名捺印すること。ヒマなんで「つんどく」になっていた新書を読んでいました。いや~進む進む。2日で3冊読んじゃいました。

 読破した新書の1つが、内田樹と名越康文の対談『14歳の子を持つ親たちへ』。5年前の本です。

 

 私の長男が15歳、次男が14歳、もうビンビンに該当者です。という切迫した思いがあって買ったわけじゃないです(切迫してたら「つんどく」になんかしません)本書は、うんと乱暴に言ってしまえば「子どもは親の思うようにはならないと覚悟しなさい」という話なんですが、その中で私的に「お!」と思ったのは次のような考察。

 

・コミュニケーション能力は努力して徐々に開発していくものである。

・子どもからの様々な発信を全部受け取ることができず、自分にとってOKな部分(宿題が済んだ、とか)以外をただのノイズとして選択的にスルーする親がかなりいて、子どもを追いつめている。

・コミュニケーションは相手の様々なシグナルを読み取ることから始まる。

・コミュニケーションで最も重要なのは自分の意見を発信することではなく、相手からいろんなことを読み取る事である。

・まず直感があって、その判断が妥当だったことは後になって言語化される。

・リクツや合理性やマニュアルなど「脳」が扱う部分ばかりに気を取られて、身体が発する様々な情報を軽んじる風潮が、コミュニケーション能力や直感力の育成を妨げている。

 

 なぜこれらに「お!」と思ったのか?それは、これらの指摘が『""のつく名前の女の子は頭がいい』で主張されていた仮説にかなり符合していたからなんです。

 

 


 

 『""のつく名前の女の子は頭がいい』の初版は1995年。もう15年前です。

 それにしても、誤解を誘発するタイトルですね。トンデモ本と思う人も多いでしょう。

 でもこれ、しごくマジメなメディア論の本です。

 

 この本で提示されている仮説は「TVは人間のコミュニケーション能力を破壊する」。

 

 より細かく言うと、

・マスコミュニケーションと通常のコミュニケーションは全く異質のものである。

・通常のコミュニケーションでは情報の発信者が主導権を持つが、マスコミュニケーションにおいては受け手側がチャンネルの選択権によって主導権を握っている。

・有益な情報伝達とは、これから予想されることについて「あらかじめ」情報を伝えておくものである。「このリンゴは毒リンゴだ」という情報は、そのリンゴを食べる前に流さなければ無益である。しかし現実には、毒リンゴを食べた相手を後から非難するような「情報のあと出し」しか出来ない人が多い。(テストが終ってから「何でもっとちゃんと勉強しなかったの!」と叱責する親はその例。)

・通常コミュニケーションにおいて、情報の発信者は受信者からあらかじめ非言語的情報(金原はPassive Languageと呼ぶ)を受け取っている。発信者はそれに反応する形で受信者に有益と思われる情報を与える。これによって「情報のあと出し」は防がれる。

・しかしマスコミュニケーションにおいては受信側に主導権があるため、マスコミュニケーションを繰り返すことにyり、Passive Languageを受信する能力が劣化していく。

・しかし1960年代にTVが普及した時期、コミュニケーション不全はまだ顕在化していなかった。これは当時の親の世代がマスコミュニケーションをあまり体験していないため、マスコミュニケーション中心で育った子ども(金原は「メディア1世」と呼ぶ)たちのPassive Languageを受け取る能力があり、トラブルを未然に防いでいたためである。

・ところが「メディア1世」自身はPassive Languageを受け取る能力が劣化しており、彼ら彼女らは自分の子どもたち=「メディア2世」とのコミュニケーションがうまくとれず、結果「メディア2世」がひどいコミュニケーション不全に陥っている。

・「メディア2世」が育てる「メディア3世」は、さらなるコミュニケーション不全が予想される。

 

 内田樹と名越康文の対談で述べられていた「相手の発信するさまざまなシグナルを読み取る」能力は、金原が打ち出したPassive Language仮説そのものです。

 Passive Languageというのは、いわゆる非言語コミュニケーション(nonverbal communication、主に身振り手振りなどを指す)とは違います。

 金原自身が挙げているのは、例えば、漁に行っているはずの時間なのに船がまだあるのを見て「あれ、何かあったかな?」と思うということです。

 親子であれば、「子どもの様子がいつもと違う」というのは、典型的はPassive Languageの受信と言えます。ただ、それは必ずしも顔色や口調や身体の動きだけでなく、身なりや部屋の中の様子やその他の物理的なものでもあり得ます。あるいは、今日は昨日よりも風が冷たいのに、子どもが昨日とまったく同じ軽装で出かけようとしているというようなことに気づくのも同様でしょう。

 

 ところが、TVに代表されるマスコミュニケーションには、そういう要素は一切ありません。

 発信側は発信するだけ。受信側のことは一切見えていません。仕方が無いから、発信側は受信側に受け入れてもらえそうな情報を総花的にドカッと送り出します。

 一方、受信側は、その中から自分にとって面白そうな情報を選択的に受け取ります。面白くなければチャンネルを切り替えるかスイッチを切ります。主体は受信者です。

 この「選択的に受け取る」というのも、内田名越対談で指摘されている事です。子どもが発する(言語・非言語ともの)様々な情報に対し、親は受容可能なものだけを選択的に受信し、あとはノイズとしてスルーする。番組中のCMをスルーするように。


 こうして見ると、金原仮説はかなり当たっていたという感じがします。当たって欲しくなかったけど。

 なお、金原自身はこの傾向への対策はただ一つ。「TVを見ない」ことしかないとしています。


 一応タイトルについて説明しておくと、これは著者の金原が自分の仮説を検証するために使った調査から出ているものです。彼は学生時代の塾講師や家庭教師のバイトをし、まったく学習の成立しない子どもを何人も目の当たりにします。意欲がないとか能力が低いとかいうこと以前に、他人を話を聞けない。聞いているようでも、全然受け止めていない。コミュニケーションがまったく成立しない。

 ここで金原は、彼ら彼女らに悪意はなく、ただ「他人の話を聞けない」ようにプログラムされてしまっているのではないかと考えます。それが学習面の障害にもつながっているのではないかと。

 で、ここからが面白いところですが、ここをあぶり出すために、彼は「女の子の名前」に注目しました。

 

 名前というのは、親や親類が本人の意思と関係なく付けるものです。だから名前には親や親類の意向や感覚が反映されている。

 ご存知の通り、現在では「花子」や「裕子」など「子のつく名前」の女の子はごくごく少数派です。かつては主流だったのですが、1970年代以降ずっと減少して現在に至っています。

 金原は厚生労働省発表の新生児の名前と、「紅白歌合戦」に出場した女性歌手に占める「子のつく名前」の歌手を調べます。その結果、新生児の「子のつく名前」における減少傾向が、紅白歌合戦女性歌手内のそれと2年ほどの時間差できれいにリンクしていることを発見します。

 「子のつく名前」の減少は、TVの影響である可能性が高い。TVをよく見る親ほど、子どもに「子のつかない名前」をつけるのではないか。

 

 現在と違って、かつては全高校の全合格者が実名で新聞に掲載されていました。金原はこれを利用します。仙台市内の高校の合格者名簿を調べ、偏差値の高い高校ほど「子のつく名前」の合格者割合が多いということを明らかにします。さらに雑誌の懸賞当選者発表のページをチェックし、「子のつく名前」の当選者の割合はコミック雑誌ほど低いことを指摘しています。

 もちろん、このような分析は現在では不可能です。高校合格者は実名発表しませんし、そもそも「子のつく名前」はすでに希少品です。金原の分析は90年代という時代ゆえにできたことです。

 しかし、これらの分析から、親がTVの影響を受けている子どもほど、学力的には伸び悩みがちで、趣味的にはコミックのような方向に行きがちであるという傾向が読み取られます。

 で、その先は、すでに紹介した通りです。


 なかなか怖い話でしょ?


 私も最近思うんですが、発信力より先にまず受信力を鍛えるべきじゃないかと。

 小論文入試の場合、最大のポイントは「課題文が正確に読み取れている」ことなんです。意見の発信はその次のお話。

 何と言うかですね、国語でも英語でも、特に英語は、やたらと発信する力を鍛えろ鍛えろと求められるんですよ、最近は。つまり話す力をね。

 でもね、本や映画や人の話やその他からいろんなことを受信して自分のものにしていなけりゃ、発信なんてできませんよ。で、受信力というのは、ものすごく積極性が必要なものなんです。

 文章をただ目で追っても、筆者の言いたい事は読み取れません。TVやラジオの音声をただ聞き流していても、自分に理解できないことは選択的にノイズとなって捨てられます。こっちから攻めて行かないと、大した事は得られないんです。

 Passive Languageも、こちらから主体的に感じ取ろうと攻めて行かなければ、決して気づく事はありません。

 そしてそれは、情報とか学力とか脳科学とかいうような頭でっかちな能力じゃなくて、もっと肉体的で感覚的で情緒的な能力です。

 

 

 あ、長男の抜歯手術は予想以上にスムーズでして、最短期間で退院できました。

 どーせヒマだからということで、彼には数学の宿題を持参させて、病院のベッドでやらせました。世の中甘くないっつーの。

 

 


 

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