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ssh385 その場にいない人を自己利益のために引っ張り出すな [リテラシー・思考力]

<2010>

 

 ものを読んで得られる最高の快楽は「そうか!自分もそれが気になっていたんだけど、それはこういうことだったんだ!」と思える文章に出会うことでしょう。

 

 自分もそのことについて、何らかの問題意識を持っていた。気になっていた。しかし、それが明確な思考にならない。どうにもモヤモヤした状態が続いている。

 いろんな人がそのことについて語っているのだけれど、どれもどーも腑に落ちない。でも、明確に反論できない。自分の考えが明確になっていないから。

 そういうモヤモヤした感じを引きずっているとき、まさに自分はこういうことを言いたかったのだと思えるような、明確に言語化された文面に出会った時の快感はたまらないものだあります。

 古くさい言い回しだと「我が意を得たり」という感じ。

 

 さて、私が最近「そうか!」と思ったのが、山田ズーニー氏の「おとなの小論文教室」のこの文章。(なお引用文には改行の変更・一部削除・太字などの私によっていじくられた部分があります。リンク先で原文を参照してください。)

Lesson510 「こども」という印籠――2.現場にいない人はどこから来るか?
◆◆

 前後するが、Lesson507 「こども」という印籠には、たくさん、いいおたよりをいただいた。私自身、発見があったので、きょうは、読者メールをもとに、さらに考えていきたい。
 私が疑問に思うのは、現場にいない人がなぜ出てくるか?ということだ。
 ことの発端は、私が駅のホームでコラーゲンドリンクを飲んでいたことから始まる。
 その日のホームはすいていて、こどもは1人もいなかった。にもかかわらず、ある人から、「だいたい駅のホームでドリンクを飲むなんて、こどもがいたらどうする?ビンがわれて、こどもがケガでもしたらどうする?」と言った。
 またある人は、私にぶつかった「疲れたおじさん」が可哀想だと言う。

 ぶつかった人については、「男」としか表記していない。私にぶつかったのは、実は、30歳くらいの血色のよい、がっしりした男、つまり「元気な青年」だった。

 現場に本当はいない、「こども」や、「疲れたおじさん」は、なぜ、どこから出てきたのだろう?

 「現場にいない人はどこから来るか?」


 

 現場に実際にはいない人物を持ち出したことは、私にもある。
 この夏、銀行に行ったときのことだ。番号札を取って並び、私の番が呼ばれた。やっと順番がきたので窓口に行くと、私の書類に不備があるという。それで、書き直してほしいと、直せたら、もう一度番号札を引き直して、順番まちの最後尾に並んでほしいと言われた。
 以前は、そんなルールではなかった。窓口で書類に不備があったら、書き直してすぐ持っていけば、窓口で手続きしている最中の人の、すぐ次の順番に入れてくれた。少し前からこの支店だけ、ルールを変えたそうだ。
 私が納得がいかないというと、クレーム対応専門の女性が私の話を聞いてくれることになった。
 私は、「書類に不備があったら、次の人を先に処理するのは当然だし、1番あと、2番あとになるのは、まったくかまわない。しかし、整理券を取り直して列の最後尾にならなければならないのが、
どうしても納得できない」ということをひとしきり、とうとうと伝えた。
 今年の夏は、人生で一番暑かった。その日も、朝からものすごい暑さだった。ニュースでは、お年寄りが熱中症で亡くなったと連日報道されていた。
 それで、私は、言ったのだ。「この暑さです。猛暑の中、お年寄りが銀行に来るだけでも大変なのに、長い順番待ちをして、窓口で出した書類に不備があって、また最後尾に並ばされて、体調が悪くなったら、どうするんですか?
 すると、クレーム対応の女性は、とても冷静に、品のある穏やかな声で、でも、はっきりとこうたずねた。
 「それは、その場に、実際にお年寄りがいた、ということでしょうか?それとも、仮定の話でしょうか? 大事なところですから、確認させてください。その場にお年寄りは、いらっしゃったのか? いらっしゃらなかったのか?」
 私は、はっ、と痛いところをつかれ、黙った。次の瞬間、恥ずかしさと自己嫌悪がかぁ、とこみあげ、消えてなくなりたい心境だった。◆◆

 

 う~ん、確かに痛い。わが身にも思い当たることがあるから、痛えーっという感じがよくわかる。相手を言い負かしてやるんだと気負っている時って、ついこういう反則攻撃をかけちゃうんだよなあ。

 なぜ、私たちはその場に居もしない「弱者」を引っ張り出すような反則攻撃に出ちゃうのか?山田氏の考察は以下のようなもの。

 

◆◆
 「現場にいない人はどこから来るか?」
 これはもちろん、前回「印籠」と言ったように、それを突きつけることで、相手を現実以上に悪者にし、反論できないようにし、自分が優位に立ちたいという心理からだ。つまりは自分の先入観、偏見。
 こどもにしろ、お年寄りにしろ、現場にいない人物を持ち出した時点で、私は、人それぞれの個性や、固有の経験や人格や尊厳を見失って、ひとくくりにして、勝手に、弱者と決め付けている。そういう愚かさが私にある。◆◆


 「おとなの小論文教室」は非常に優れた読者を多く持っています。山田氏も読者から送られたメールに大変な示唆をもらっているようです。
 今回紹介した記事にも、複数のメールが紹介されています。印象的だったのは、やたらと子ども扱いされて大事にされるのが嫌いだったという内容のものです。子どもだって子どもなりに自分で考えて生きているのに、そういうことを全く度外視して、ただただ保護される対象として扱われるのが不快だったと。
 わかりますね、その気持ち。
 子どもをナメちゃいけませんよ。子どもだって人間です。子どもの方が大人よりずっと深くモノを考えている場合もよくあります。

 さて、冒頭の「我が意を得たり」ですけど、これは私の過去記事 ssh201「社説の読み方~教員採用汚職編」の関連です。もう忘れてる人もいるでしょうから確認しますと、2年前に大分県の教員採用試験で県側担当者が金品を受け取って得点の改ざんを行って合否を不正に操作したという、実に立派な汚職事件です。
 この時、私は中央5紙の論調があまりにステレオタイプであることに呆れ、5本の社説すべてが

 (A)他の職種ならともかく、教育関係者だけに許しがたい。

 (B)保護者や子どもに対して何とするのだ。 

 (C)教育委員会の閉鎖的な体質を改めよ。
 の3点で要約できてしまうとその内容のなさを皮肉りました。
 その後、この3点は ssh266「社説の公式」という社会科学的大発見(?)へと発展しました。ちなみにその公式とは、

◆◆
 ある人物または組織について、その人物または組織の立場・職責を a対象となる顧客・支持者・受益者を b

その人物の属する組織またはその組織そのものを cとすると、

 社説がその人物または組織を批判する時の論旨 x, y, z
 x=  a 以外ならともかく、 a であるがゆえに許しがたい

 y=  b に対して何とするのだ

 z=  c の閉鎖的体質を改めよ  である。◆◆

 

 しかし実は、その後も違和感というか怒りみたいなものはあったのですよ。
 今回、山田氏の記事で「おお、そうか!」と思った、私のイライラの理由。
 それは、中央5紙が
 自分の立場を有利にするために、同席していたわけでもない保護者や生徒をダシに利用したからだったんです。

 メディアは、生徒や保護者のことなんか、普段はまったく考えちゃいません。普段の彼らにとって生徒保護者は叩くべき相手、子どもがトラブルを起こせば自己責任か親の責任です。
 そのクセに、あんな時だけ急に生徒保護者をダシに引っ張り出してきた。
 私のハラワタが煮えくりかえったのは、そういう理由だったんです。

 この反則攻撃は、しかし、想像以上にいろんなところで大活躍しています。
 普天間問題では、日頃一顧だにしていない沖縄県民の感情を引っ張り出す。
 公務員批判の時だけ、急に血税とか言い出す。
 内政の問題では、日頃無視している「国民」を引っ張り出して、「国民感情に照らし合わせれば」とか「国民は納得しない」とか言い出す。私ゃアナタ方に代弁してもらうような安っぽい感情なんか持ち合わせてないっつーの。

 

 とはいえ、私だってこういう反則攻撃は今までも数限りなくやってきたはずです。生徒や自分の子どもや親兄弟やその他を手前勝手にダシに使って自分の利益を求めるような卑怯なマネを、絶対にしてきたはずです。

 他人のことは言えません。まず自分が気をつけないと。


 

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