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ssh466 総閲覧数800,000件のお礼 [ご挨拶&エッセイ]

<2011>

 

 824日に総閲覧数が80万件を越えました。みなさんのたくさんのご訪問ありがとうございます。

 

 ssh11本の記事がやたらと長いブログです。一般的なブログよりもずっと長い。いわんやtwitterをや。我ながらよくもこう字数の多い記事ばかり書くのかいなと思います。あまり読み手に対して優しくないです。

 そんなブログにたくさんのご訪問をいただけるというのは、実にありがたいことです。本当にありがとうございます。

 

 さて、節目のお礼の挨拶ですが、ここのところ私の昔話を書いています。50万件は高校の勉強60万件は大学受験70万件は大学進学のお話でした。

 80万件のネタですが、あれこれ迷った末、私が中学で合唱に出会ったお話を書くことにします。

 

 

 冒頭からナンですが、学生時代に何か一つのクラブ活動に携わるというのは、世界標準ではないのですよね。  「学生時代に何やってたの?」という質問は、我が国ではごくごくフツーの会話です。蛯原友里が高校時代にバスケをやっていたとか、櫻井翔は元サッカー部だとか。

 でも、これは海外ではよくわからないこともあるようです。

 北米(アメリカとカナダ)だと、運動の達者な学生はシーズンごとに違う競技に参加します。夏は野球、秋はフットボール、冬はアイスホッケーとか。野球のエースはアイスホッケーの主軸でもあったりします。

 だから、彼ら彼女らには、一筋に打ち込む「部活」の感覚がイマイチ理解しにくいようです。

 実際、野球部はbaseball clubよりもbaseball teamの方がピンとくるみたいで。

 アフリカやオセアニアや南米やアジアなどその他の地域の状況はよく知らんのですけど。

 

 なぜ海外事情に触れたのかというと、私は「一つのことに打ち込む」のが実に苦手な人間だからです。


 

 私には大変に学業成績のデキのいい兄がおりまして、彼は中学時代テニス部に所属しておりました。

 兄は体格的にはあまり恵まれておりませんで、運動は小さいころからあまり能はありませんでした。

 しかし、彼は中学で3年間テニス部を務めました。試合結果はともかく、3年間ちゃんとやった。

 この「辞めずに最後まで務める」というのは、日本の学校のクラブ活動では、大変な美徳です。

 

 私は中学に入学した時、すぐにテニス部に入部しました。もちろん理由は兄がやっていたからです。兄がやれるものが、私にできないことはないだろうと、まあそういう安直な発想。

 ところが、当時はちょっとしたテニスブームだったのですね。入部希望者が例年よりも多かった。

 顧問の先生は新入部員たちの目の前で23年生に向かって「多すぎるからしごいて減らせ」と公言してました。

 

 で、先生の希望通り、私はリストラとなりました。

 テニスもヘタクソだったけど、とにかくガリガリの痩せっぽちの中学生には持久力というものが全然なくて、練習について行けなかったんです。特に朝練習は。不真面目な生徒だったし。1年ともたずに退部となります。

 

 かくして帰宅部となった私を不憫に思ったのか、2年次の担任の先生が、私を科学部に誘ってくれました。

 他にやることもなかったし、理科は割と好きだった私は、2年の4月に科学部に入部します。

 

 しかし、これがまたダメでして。

 科学部というのは、水質汚染や水生生物の生体を結構長い期間にわたって調査している、割と立派なクラブでした。

 学校近くの川に行って、水を汲んで来たり、川の石をひっくり返して水生昆虫を探したり、観察結果を模造紙にまとめて発表会に送ったり。地味だなあ。

 実は私は、生物はあまり好きじゃないのですよ。というより、キライ。私は理科は理科でも、物理化学が好きなんです。それより何より、地道にコツコツってのがチョー苦手。地道にコツコツが得意だったら、テニス部だって1年で辞めてないって。

 ほどなくやる気を失った私は、唯一の2年生ということで次期部長の任をもらった(押し付けられた)にも関わらず、部活をサボりまくって、呆れた後輩たちからクビを言い渡されました。(次の部長となった人間は、現在京都大学大学院の教授です。)

 

 かくして、私は中学2年間で2回もクラブ活動からドロップアウトするという快挙を成し遂げます。3年生となった私は、またまた帰宅部のブラブラ学生でした。

 

 

 ところで。

 今も昔も、NHKやらどこやらが学校対抗の合唱コンクールを行っています。

 当時は、地元の国立大学付属中学校が常勝集団。地区大会では毎年最優秀校となっていました。他の中学はどうしても勝てない。

 中2の時、ここに風穴が空きます。私の中学の合唱部がその付属中学を破って県大会に進出しました。さらにブロック大会も勝ち進んで全国大会まで進みます。

 当時の顧問は新進気鋭の若い男性の先生でした。この快進撃は先生の存在なしには語れないです。

 

 その合唱部ですが、部員は女子ばっかり。NHKコンクールも女声合唱での出場でした。

 もちろん、勝負だけにこだわるなら、クラブで徹底的に女声合唱を極めるべきなんでしょうけど、先生はそういう人じゃありませんでした。音楽家としては、女声ばっかじゃなくて、混声もやりたいんですよ。

 NHKコンクールの後に、TBS系のコンクールがありました。これにはぜひ混声で出たい。

 先生は数年前から、TBS系コンクールに混声で出場するために、変声期の過ぎた3年生を臨時部員としてドラフトしていました。

 で、私は友人ともども、そのドラフトに引っかかったのです。

 

 恥ずかしながら、私の中学時代のクラスは、素行も成績も少々問題のあるクラスでした。授業中に先生方からお小言をもらうことも多かった。

 ただ、どういうわけか、歌は妙にうまかったんです。音楽会の合唱もすごくうまかった。

 私のクラスからは、けっこうな人数の男子がドラフトされました。

 

 で、ドラフトされた私たち(全体に素行のよくない男子ばっか)は、まず担任の先生に呼ばれ、高校受験の大事な年の夏休みにクラブ活動に参加することへの懸念も伝えられました。

 でも、全員快諾。

 たぶん女の子ばっかの部活に行くのが嬉しかったんでしょう。何せ素行のあまりよくない男子でしたんで。

 

 で、これがまた、結果が良かったんですよ。地区大会をトップで通過。地元TV番組にも参加して(私はインタビューをされた)、東京で行われるブロック大会にも行った。

 

 

 この時にたぶん私は初めて、「オレにも部活ってものはできるんだ」と思ったのでしょうね。

 何せ中学2年までは何一つモノにならなかったのですから。もし当時「一つのクラブをずーっとやるなんてのは欧米じゃないことだぜ」と言ってくれる人がいたら、そんなに敗北感に苛まれることもなかったんでしょうが。35年前のイナカの中学って、なかなかキツかったんです。

 

 で、私はその後、高校と大学で合唱をやることになります。

 

 

 私の両親は、若い頃の私のことがかなり心配だったようです。

 親の言うことは聞かない、イタズラはする、宿題はやらない、クラブ活動は長続きしない、しかも兄はデキがいいと来ている。

 だから、私が中3から合唱に足を踏み入れて、ずいぶんと安心したみたいです。ようやっとクラブくらいはマトモに務めるようになったかと。

 本当に、音楽の先生には感謝しています。ある意味、命の恩人です。

 

 

 時は流れて、中学卒業後20数年のある日。

 前任校に務めていた私は、地元の中学に営業回りに行きました。

 「営業回り」ってのは冗談じゃなくて、「ぜひ我が校を受験させてください」という売り込みのための仕事です。今は公立高校だって広報活動はやるのです。

 で、とある中学に行ったら、出迎えてくださった教頭先生が、何となく見覚えがある。

 名前も何か聞き覚えがある。

 別室で一通りの説明をした後、改めて教頭先生にお会いして、

 

 「あの、教頭先生、もしかして◯◯中学で音楽の担当をしていた××先生じゃないですか?」

 「やあ、やっぱりそうか。顔を見て名前聞いて、もしかしたらと思ったんだよ。」

 「あ、いや、あのえ~と(かなり緊張して)、本当に先生にはお世話になって。あれから大学までずっと合唱をやったんです。」

 「へえ、そうかい。ああ、今、▽▽高校に勤めてるんだな。オレの母校だよ。」

 「え?そうだったんですか。」

 「ああ。まあもっとも、オレは高校時代は合唱キチガイで部活ばっかやってたけどな。」

 「え、そうだったんですか。いやでも、まさかこんなところお会いできるとは。」

 いやあ、嬉しかったなあ。

 

  

 私の勤務校の合唱コンクールは来週です。

 クラスの練習がイマイチ進まない時に、ちょいとカツを入れたり、ちょっとした技術指導を入れられるというのは、学生時代に合唱をやっていたおかげです。

 もう合唱をやらなくなって久しいのですが、昔取った杵柄というのも使えるもののようです。

 

 

 さあ、こうなると90万件の時はどんな話を書くことになるのでしょうか?徐々にプライバシーが暴露されていくようで怖くもあるのですが、毒喰わば皿までとばかり、経歴が丸裸になるまでsshが続くというのも楽しそうだなとか思ったりして。

 そんなこんなのsshです。これからもよろしくお願いします。


 

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