SSブログ

ssh537 文系秀才の憂鬱(1) [教育問題]

<2012>

 

 言葉による自己表現をメインに教育全般を扱うという触れ込みの当sshスーパー小論文ハイスクール。

 その名の通り、私はsshの記事の大半を高校生(or大学受験生)を想定して書いています。(高校生以外にもたくさんの方にも読んで頂いているのは大変にありがたいことです。)

 そういうsshで、こういう話題を書くのは少々気が引けるのですけど・・・。

 

 

 私の本業は高校の教員です。ですから、高校生に文理選択の指導もやります。

 で、数年前から私ははっきりと「理系は文系よりエラいんだ」と言っています。

 

 理系は文系よりも、やることが多いです。

 国立大学志望なら、国語・英語・数学IAIIB・社会科1科目にプラスして、理科をIIまで2科目と、数学IIICを勉強しないといけない。

 これが文系だと、最も科目負担がキツい東大・京大ですら、国語・英語・数学IAIIB・社会(地歴)2科目・理科1科目(しかもIまで)で済みます。数学IIICは不要、理科も地学か生物のIだけで大丈夫。化学IIだの物理だのは最初からいらない。

 (注:来年度入学生からは「脱ゆとり」の新課程で科目名も大きく変更となります。それでも理系の方が負担が大きいのは同じ。)

 

 1970年代あたりまでは、文系と理系には厳然たる階級の差が(全国ではないにしても)存在していました。

 中学時代によく読んだ受験コメディマンガでは、中高一貫私立校で入学早々コース分けテストが行われ、最も成績のいい生徒は東大医学部コースに振り分けられるというネタがありました。また、林真理子は高校時代に「結婚するなら国立理系の男」と思ったと書いています。一番成績のいい学生は国立理系コースだったので。

 70年代ころの日本の受験界では、まさに理系は文系よりも「上」の存在だったのです。

 

 さすがにそれは露骨過ぎて教育上よろしくないという配慮があったのか、その後は理系と文系はわりとイーブン(均等)に語られてきたように思います。学力によってではなく、やりたいことによって志望しようということでしょうか。学校という場では、その方が正義だと思います。

 

 思いますけど、理系が文系よりも多くの学習をせねばならないというのは、厳然たる事実です。

 で、このことが、文系の優等生たちに、えも言われぬ憂鬱を与えているのではないか、というのがこの記事の眼目です。

 題して、文系秀才の憂鬱。


 

 秀才というのは、天才以上にプライドが高かったりします。

 天才の場合、天賦の才能が規格外。ナチュラルにいろんなことをこなしてしまう。それが当然なので、自分の能力が他人よりも高いということに無頓着な場合がある。極端な場合、自分の興味の対象以外には全然興味がない。他人と比較する気もないし、結果(例えば学歴)にも関心がなかったりする。(そうじゃない天才ももちろんいますけど)

 

 秀才もけっこうな天賦の才能を持っているけれど、こちらは規格内。その才能を努力で磨くことでパフォーマンスを発揮している。

 秀才にとって、他者との比較や結果は、自分の努力と才能を確認する重要な指標です。秀才は比較と結果にわりとこだわります。(もちろんそうじゃない秀才もいますけど)

 

 文系秀才のプライドを手っ取り早く保証してくれるのは学歴です。アイツは明治だがオレは早稲田だとか、同じ早稲田でもアイツは教育だがオレは政経だとか。大学のヒエラルキー(階級)は偏差値・難易度によってカッチリとランキングされています。大変にわかりやすい。

 

 ただ、学歴自慢というのは、かなりイヤミなものです。明け透けにはやれない。本人的にはすごく誇りたいのだけれど、言葉を選ばないと。一番選ばないといけないのは、その話題を持ち出すきっかけ。間違っても自分から言ってはいけない。ベストは他人から振ってもらうこと。

 「◯◯さんって、慶應なんですよねえ。」とか言ってもらえりゃ、つかみはOK(古い・・・)

 

 自分にとっての(もしかしたら一番の)誇りを、あまり他人に明け透けに誇るわけにはいかない。

 これが文系秀才の憂鬱要因その1です。


 長くなったので、続きは次回以降。


 

nice!(1) 

nice! 1