ssh533 誠心誠意、バカをやる〜文化祭の意義 [教育問題]
>2012>
今年もやってきました、高校の文化祭シーズン。
わが県では6月下旬から7月中旬がハイシーズン。期間は3~4日間。かなり大盤振る舞いです。
2年前に「ssh342 文化祭は息抜きじゃない」という記事を書きました。内容はこんな感じ。
◆◆かつて、社会で生きていく様々なスキル—他者との共同・労働のノウハウなど—を子どもに教え込む仕事は地域共同体が担っていました。高度経済成長によって、そういう共同体は解体されました。今、日本の社会に、社会生活のスキルを教え込む場は、もはや学校以外に残されていません。
文化祭には、小学校の運動会のような、大変な教育的な意義があります。一言で言えば、成長の機会。自分たちの手で、困難に思われる企画を運営し、それをやり抜く。こういう体験をした時、人はえも言われぬ充実感と自信を手にします。いい意味での成功体験です。
文化祭は、お祭りじゃありません。息抜きでも、レクリーションでも、気分転換でもありません。生徒も教員も、必死です。必死になって、バカみたいな、学業には何ら結びつかないようなことを企画して運営します。◆◆
私のこの認識には、今も変化はありません。お勉強がデキるという意味での「学力」を身につけること「だけ」が教育の目的であるなら、何もわざわざ学校に通う必要はありません。塾でも家庭でも、場合によっては子ども一人の力でも、学力を身に付けることは可能です。昨今ハヤリの親の教育力なるものが本当に高ければ、学校は無用の長物です。
だからといって、学校に行くことをムダだと認める人はあまりいません。それは、学校というところは、行けるものなら行った方が、行かないよりはいいからです。その理由は、他の子どもがいるから。
今や、学校にでも行かなければ、ヨソの子どもと交わって、笑ったり泣いたり傷ついたり傷つけられたりというチャンスはありません。
小学校であれば運動会や音楽会。高校であれば文化祭。ここでどんなことに関わり、どんな困難を経験し、どうやってそれを乗り越えたか。それがその生徒の重要な成長経験となります。
ただし。
こういうものは、誠心誠意やらないと意義はありません。
真剣にやるからこそ、悩むし、苦しむし、つらい。
真剣に悩んで苦しむからこそ、それをやり切った時の達成感がある。
バカなこと、ムダなものこそ、全身全霊をかけてやらねばならないのです。
文化祭で生徒が経験することは、実社会で彼ら彼女らに直接の利益をもたらすことはありません。
入試のための学力はもちろん、仕事のスキルとか、シューカツに役立つ資格とか、そういうものとは無縁です。
しかし。
文化祭でバカ・ムダを全身全霊やり切った人間は、確実に社会で生きていく力をアップしています。
マトモな人事担当なら、それは簡単に見抜けるはずです。
バカなことほど、真剣にやらないといけないんです。
さあ、もうすぐです。
私も真剣に、バカなイベントをバックアップするつもりです。