ssh674 言葉を失う時があってもいい [リテラシー・思考力]
<2014>
言葉を失う時があってもいいんです。
この世の中は理不尽なことに満ちています。
そもそも人間という存在自体が矛盾に満ちた理不尽なものです。
自分がいずれ死ぬことがわかっているのに生きようとする生き物は人間だけです。
長崎で悲しい事件が起きました。多くの人々が現実を受け止められずに言葉を失っています。
Yahooニュースのコメント欄が全く精彩がありません。いつもの「◯◯が悪い、抹殺しろ」みたいな威勢のいいバカコメントが全然見当たりません。
中央紙がまったく社説展開できずにいます。唯一社説展開した産経クンも、単純明快思考浅薄勧善懲悪バッサバッサといういつものトーンがまったく使えず、歯切れの悪い文面しか書けていません。
オヤジ週刊誌(週刊文春・週刊新潮など)だけが、何とかいつものトーンで特集を組もうとしているようです。週刊誌は容疑者の写真をバラすとかいろんな対応があるのでしょうけど、しかし事件に対する評価は全然できていないようです。
少年犯罪が起きると親が悪いの教育が悪いの憲法が悪いのとバカの一つ覚えのように反応する三流のコメンテイターが、全然反応できていません。
そもそも今回の事件には、わかりやすいワルモノがいません。親にしても学校にしても、非難されるようなことをしていない。だから、多くの人々が言葉を失っています。
こういう時に、急いでコメントや意見を考える必要はありません。
言葉を失ったのなら、素直に言葉を失っていればいいのです。
事件は防げなかったのか、という声があります。
私の考えでは、こういう事件は、相当数が防がれているのだと思います。
放っておけば大惨事になっていたようなトラブルが、家族や学校やその他の人々によって防がれてきた。
しかし、やはりすべては防ぎ切れない。どうしても時として事件は起きます。
防がれた事件は勘定ができません。起きていないのですから。
言葉を失うほどの現実に直面したときに、あわてて結論を探してはいけません。
確かに、何なのかよくわからない状態は不安です。できれば早くはっきりさせたい。誰が悪いのか、どうすればいいのか、とにかく早く片付けてしまいたい。誰しもそう思いたくなるものです。
でも、そう思っていると、もっとも陳腐な意見に染められてしまいます。親が悪いとか、教育が悪いとか、戦後が悪いとか。そして、自分の判断を放棄することになります。
わからないときは、素直に「わからない」と認めればいいんです。
そして、宙ぶらりんで落ち着かない状態ではあるけれど、わからないまま、それを気にしながら生活すればいい。
そうしていると、普段の生活の中で、ちょっとしたヒントを拾えることがある。
そうやって、少しずつ、自分で答えを見つけていけばいい。
仕事でコメントを求められるような人ではないのだから、ゆっくりと、じっくりと考えればいいんです。
なお、私個人は、今回の事件には、実はそれほど関心がありません。
というのは、こういう不可思議な事件は、いつの時代も時として起きていたからです。古今東西で起きた伝説的な猟奇的事件と似たようなものが今この日本で起きたのだな、という感じでして。
前述のように、こういう事件を100%防ぐことは不可能だと私は思います。どんなに努力しても、どうしても稀に起きてしまう。その稀が起きてしまったのだな、というのが私の偽らざる感想です。
そもそも私は、殺人事件に対して週刊誌の記者さんみたいに気分がハイになったりしないのですよ。ただ切ないだけで。
この種の不可思議さを、凡人たる私たちにもかろうじてわかるように消化するのは、恐らく教育や医療や学問の仕事ではなく、文学の仕事でしょう。