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ssh739 市民運動について考える(1)〜不慣れな人々の行動 [社会]

<2015>

 

 この夏、安保関連11法案に対する多くの運動が、ごく当たり前に行われるようになりました。

 圧倒的に多いのが反対派の集会・デモ・学習会・声明発表など。ごくごく微量ですが、賛成派のデモと声明というのもあります。

 

 私の居住する県でも、安保法制反対の集会やデモが行われるようになっています。本日830日は県内34ヶ所でデモ・集会・スタンディングが行われます。これは相当珍しいことです。だいたい県庁所在地など大きめの市でせいぜい23ヶ所というのが通例ですから。

 

 私も先週と今日、集会に顔を出してきました。

 先週は50人くらいの地味な集会でしたが、今日は国会包囲行動と連動しているということか、大雨にも拘らず、ちょっと勘定しきれないくらいの数の人が参加していました。主催者発表の300人まではいなかったかも知れませんが、前回の4倍はいた感じです。

 

 この集会では、実に新鮮な感覚を味わいました。

 一言で言うと、集会の主催者も参加者も、なんか不慣れなんですよ。


 

 労働組合が動員をかける集会やデモにはずいぶん参加したことがあります。

 こちらはみなさん、この種の運動に慣れてます。主催者はもちろん、参加者も行進やらシュプレヒコールやら団結ガンバローやら、やるべきことがわかっている感じ。フォーマットが出来上がっているというべきでしょうか。デモも集会もフォーマットに従ってスムーズに堂々と進みます。

 でも、今回の集会は、そういうスムーズさ堂々とした感じがない。フォーマットがないという感じでした。

 

 

 集会といっても、集まって、代わる代わるスピーチをして、それでおしまいという至ってあっさりしたものです。時間も1時間ほど。

 

 さて、不慣れというのはどういうことか。

 

 1つ目は、スピーチする人たちが使う言葉が、活動家っぽくない。

 労組運動やデモに参加したり遭遇したりしたりした人ならわかると思いますが、これまでのデモや集会でのスピーチは、割と定型句が多用されています。威勢が良くて自信にあふれていて元気があって聞いていて安心ですが、悪く言えば自分の言葉じゃない。

 今回の運動でスピーチする人たちは、労組や左派政党の人たちが使うような言葉をあまり使わない。自分なりに探した言葉で話している。スピーチとしてはたどたどしいし、自信がなさそうな感じもするし、威勢は全然良くない。先週の集会でスピーチをした学生さんたちは、どうも人前で話すのは苦手そうでした。

 

 2つ目は、集会の流れがゆるい。

 組織の会長とか来賓とかのエラい人の挨拶もない。みんなで声を上げるような演出もない。シュプレヒコールなんかない。

 スピーチにしても、しゃべりたい人が手を挙げれば誰でもOK。中には突然歌い出すオッサンもいました。

 東京など大きな街ではサウンドデモとかスタイルが洗練されてきているようですが、こちらはまだまだ、手探りという感じです。

 

 3つ目は、統制がない。

 主催者を除くと、参加者は本当に自発的に来た人ばかり。動員はまったくかかっていない。

 スピーチも、内容にそれほど統一性がない。現政権の進める安保法制に反対という大きな部分だけが共有されている。

 その主催者も、10人いるかいないか。主催者からして、運営に不慣れな感じです。

 

 デモ(demonstration)が文字通り示威行動という意味であるとすれば、示している威力はイマイチかもしれません。

 

 

 しかし、私はこの不慣れな運動に、大きな意味を見出しています。

 

 不慣れな市民運動とは、すなわち、今まで既存の運動に参加したことのない人たちが、運動をしているということです。

 安倍無法政治のおかげで、これまで市民運動と無縁だった人たちが、運動に参加し始めた。

 しかも、彼ら彼女らは、既存の組織に加わらず、自分たちで動き始めた。

 今はある意味、新しい市民運動の研修期間のようなものになっていると私は思いました。

 

 今まで市民運動と無関係だった人たちが、みずから運動を起こすようになった。

 たぶんこれが、現在進んでいる安保反対運動の、一番の成果でしょう。

 

 

 ところで。

 市民運動に嫌悪感を持つ人たちが「プロ市民」という揶揄を好んで用いるようです。

 これは市民の名を語る特定政党や労組や組織の手先という批判のつもりのようです。

 政権も官僚も公安もマスメディアもお仕事として政治をしてスキャンダルを流して取り締りをしているのに、なんで市民運動だけに無謬のシロウト性を求めるのか、その理路が私には理解できんです。湯浅誠なんか自らを「活動家」と称してますが、その本気さは批判されることなんでしょうかね。

 

 少なくとも私が参加した集会に、プロらしき人は皆無でした。なにせ不慣れでしたから。

 

 

 ネトウヨでもネトサポでもないのに、市民運動に冷ややかな目を浴びせる人たちがいるのはなぜか。なぜ彼ら彼女らはそういう行動に出るのか。

 次回の記事では、そのへんのところを考えてみたいと思います。


 

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