ssh741 市民運動について考える(3)〜デモと選挙は二者択一ではない [社会]
<2015>
大阪都構想の住民投票に破れて政界引退を明言した橋下徹が、安倍・菅との会談以来すっかり元気になって、ここのところ(ロクに市役所に登庁せず)活発に安倍政権を擁護する政治活動を活発に繰り広げています。
先日もツイッターで8月30日の国会前デモを批判したようです。デモで政治を決めてはならないとか、人数が重要ならサザンのコンサートの方がどーたらこーたらと。
この言い回し、聞いたことあるなと思ったら、1960年安保で岸信介が言った「今も後楽園球場は人でいっぱいだ」と同じ発想。ツイッター界にもエンタメイベントの人数を使ってデモなんか対して意味ないと批判する人がけっこういます。みなさん岸信介と同じ精神構造をお持ちのようで。ってことは安倍晋三とも波長が合うんでしょうね。
人数の話はssh740でさんざん書いたからやめます。
今回は、選挙結果がすべてであり、デモは民主主義的じゃないという批判について考察します。
先に結論から書きますと、そもそも選挙とデモを二者択一のように論じること自体がヘンテコです。
選挙はもちろん重要です。しかし選挙だけで民主主義が機能するはずもない。デモも署名も世論も、選挙に負けず劣らず重要な民主主義のパーツです。
そもそも選挙がすべてであるなら、世論調査だの支持率調査だのは不要です。政治家にとって世論は次の選挙の行方を決める重大なものです。そしてその世論を動かすものの一つとして市民運動があります。
デモだけで世の中は変わりません。
同様に、選挙だけで世の中は変わりません。
ある意味、選挙と世論はお互いを補完する関係です。
もし国政選挙が半年おきにあるのなら、デモに訴える価値はあまりないでしょう。選挙結果が気に入らなければ、すぐにやってくる次の選挙で落とせばいい。
もちろん、そんなに頻繁に選挙をしたのでは議員も政権もマトモに仕事ができません。だからこそ4年とか6年とかいう任期があるわけです。
選挙結果は(制度に問題がなければ)選ばれた議員や政権の正当性を担保します。
ただしそれは「その時」の正当性です。翌年や3年後の正当性までは担保していない。
選挙公約になかったり、争点として主張していなかった政策をゴリ押しすれば、政権の正当性は失われます。
加えて、選挙結果は民意のすべてを汲み取ることができません。
政権を担当できない政党や候補者の主張に、重要な民意が含まれていることもあります。
選挙と選挙の間の数年間、ただ全権委任するというのは民主国家の姿ではありません。
その「間の数年間」、選ばれた議員や政権に対し、有権者の意思=世論を伝え続けなければ、政権は暴走します。今我々が見ているように。
「歴史の教訓」という言葉がよく使われます。
私が考える教訓は、いたって単純なものです。
それは、「権力は放っておくとロクなことにならない」。
中国の王朝・ローマ帝国を始め、あらゆる権力は放っておくと暴走するか堕落します。自分の権力を守ることを最重要課題として、民を蔑ろにし、そして倒れる。民衆の支持を受けて革命が成っても、ナポレオン軍やスターリン独裁のような方向に行ってしまう。
権力は、暴走できないように縛りをかけて、しっかりと監視して、民のために働くようにしむけにゃならんのです。
立憲主義とは、憲法によって権力に縛りをかけるシステムです。
昨今、私がとても気になるのは、やたらと権威権力に対してナイーヴな人が多いということ。
総理大臣は国のために頑張っているとか、警察がウソをつくはずないとか、省庁の公式発表だから正しいとか。
冗談でしょ。
総理大臣は自分のためだけに頑張ることもあるし、警察は平気でウソをつくし、省庁はデータを平気で捏造します。
油断しちゃいけないのですよ。人間は力を持つと堕落するんです。
選挙で選ばれた政権や議員に、民意に従って仕事をしてもらう。
そのためには、いろいろな形で民意を表明する必要がある。
市民運動はそのための1つの手段です。
市民運動が無視出来ないものになれば、政権や議員はそれを取り入れざるを得ない。そうしないと次の選挙で落選する危険がある。
繰り返します。デモと選挙は二者択一ではありません。
どちらも有力な民主主義のパーツです。