SSブログ

ssh742 市民運動について考える(4)〜デモの持つ第二のメッセージ [社会]

<2015>

 

 そもそもデモって、何のためにやるんでしょうか?

 

◆◆デモンストレーション

 1 抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すこと。示威運動。デモ。(2,3)◆◆

 

 示威行為ってくらいですから、威力を示すためにデモをやるわけです。上記の辞書だと、団結の威力を示すこと。だから人数が重要だし、メッセージが重要。

 と、私たちは思っています。しかし、本当にそうなんでしょうか?


 高崎経済大学の國分功一郎准教授が、パリのデモを例にデモについて考察をしています。優れた考察です。虫食い引用で紹介します。(***が省略部分。太字はshiraによる。オリジナルは2012年のスタジオジブリ冊子「熱風」に掲載。)

 

◆◆

***パリのデモを見て最初驚いたのは、ほとんどの人が、ただ歩いているだけだということである。横断幕を持ってシュプレヒコールを挙げている熱心な人もたくさんいる。しかし、それは一部である。多くはお喋りをしながら歩いているだけ。しかもデモの日には屋台が出るので、ホットドッグやサンドイッチ、焼き鳥みたいなものなどを食べている人も多い。ゴミはそのまま路上にポイ捨て。

 デモが終わると広場で代表者みたいな人が何か演説することもある。それを聞いている人もいれば、聞いていない人もいる。みんななんとなくお喋りをして、ナシオン駅から地下鉄に乗って帰って行く。

 さてデモはこれで終わりだが、実は、私のような見物人にとってはまだまだ面白いことが続く。デモが終わったと思うと、デモ行進が行われた大通りの向こうから、何やら緑色の軍団が「グイーン」という音をたてながらこちらに向かってくるのだ。何だあれは!***

 デモの最中、ゴミはポイ捨てなので、デモが行進した後の路上はまさしく革命の後のような趣になる(単にゴミが散らかっているだけだが)。しかし、彼らパリ清掃軍団がやってきて、あっという間に何事もなかったかのように路上はきれいになるのだ。パリ清掃軍団の清掃能力はすごい。彼らは毎夕、街を清掃している。そうして鍛え上げられた清掃能力がデモの後片付けを一瞬にして終えるのである。これはどこか感動的である。

***

 デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。***


 

 デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよいだろう。というか、そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである。デモの権利とは、体制の側が何とかしてデモなるものを秩序の中に組み込んでおこうと思って神経質になりながら認めている権利である。「デモの権利を認めてやるよ」と言っている体制の顔は少々引きつっていて、実は、脇に汗をかいている。***

 パリのあの群衆を見ていると、「こんなものがよくふだん統制されているな」とある種の感慨を覚えるのだ。「こんなもの」がふだんは学校に行ったり、会社に行ったりしている。それは一種の奇跡であって、奇跡が日常的に行われている。

 ここからデモの後のあのゴミについて考えることができる。なぜパリのデモはゴミをまき散らすのか。デモはほんのすこしだが秩序の外に触れている。だから、ゴミをまき散らしながら、日常の風景を書き換えていくのである。あのゴミの一つ一つが、秩序のもろさの証拠である。だからこそ、その証拠はすぐに跡形もなく片付けられるのだ。日常的に奇跡が起こっているという事実は知られてはならないのである。***

 

 フランス人はよく日本のストライキをみて驚く。「なんで日本人はストライキの時も働いているの?」と言われたことがある。何を言っているのかというと、(最近ではこれはあまり見かけないけれど)ハチマキをしめて皆で集会をしながらシュプレヒコールを挙げている、あの姿のことを言っているのである。***

 デモも同じである。デモにおいて「働く」必要はない。高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり、横断幕を用意したりしなくていい。団子でも食いながら喋っていればいい。ただ歩いていればいい。なぜなら、単に群衆が現れることこそが重要だからだ。

 すると、ここでおなじみの問題に突き当たらざるを得ない。なぜ日本ではデモに人が集まらないのかという問題である。***

 たとえば、多くのひとはいきなり「中国の工場における農民工搾取問題」と言われても何の関心ももたないだろう。けれど、iPhoneユーザーに対して「あなたが持っているiPhoneを製造した工場で労働者の連続自殺が問題になっている」という情報の提示の仕方だったらどうか。さらに、そのiPhoneユーザーの年齢にあわせて、「昨日死んだのは、あなたと同じ年齢の一九歳の若者でした」という情報が、写真付きで届けられたらどうか。「ちょっとくらいは別の国の、出会ったたこともない労働者のことを想像するかも知れない」。

 人々を立ち上がらせるのはモラル・エコノミーの侵害だけではないだろうが、しかし、これは大切な回路である。そしてもう一つ大切なのは、最後の最後にならなければ自分のモラル・エコノミーの侵害に気がつかないという事態も多く存在するということである。

 身近なところと遠いところ、少し難しく言えば、コンサマトリーな親密圏と問題が起きている公共圏とを繫ぐ何かが必要である。その何かは様々なものであり得る。原発事故であれだけの人が立ち上がったことを考えると、意外にちょっとした工夫で事態は大きく動くのではないかという気もしている。◆◆


 この考察の要点は2つ。

  1. デモはスローガン以外のメッセージを持っている。それは大衆が体制に従わない群衆となる可能性を権力に伝えることである。
  2. デモへの参加を促すには、大きな正義を身近な問題としてつなげるものが必要である。

 私はこの1.のポイントは非常に重要だと思います。

 政治と市民は、いつもハッピーな関係にあるわけじゃない。むしろ利害は対立しやすい。政権はそれをなだめたり修正したり脅したり民意を汲んだりして体制と秩序を維持しています。

 しかし、政権があまりに市民に有害になると、反対運動が活発化します。場合によっては大規模な反政府運動やクーデター・革命に発展する。そうなるともう法律もヘッタクレもありません。政権は軍事力で鎮圧するしかない。当然、国際社会からは非難され、政権はグラグラになります。

 

 デモの持つ大きな第二のメッセージ。それは民衆をあまり軽く見ていると制御の効かない群衆となって政権を脅かすかも知れないと政権に認識させることです。

 だからデモはデモであるだけでいい。ただ集まっているだけでいい。

 さらに言えば、デモは少々迷惑なものであって構わない。というか、デモとはそういうものである。

 秩序をほんの少し逸脱するのですから、何もない時よりは周りに影響が当然出るんです。

 

 デモが迷惑だと非難する人はけっこういます。だいたいは政権側の人間か政権寄りの経済人かネトウヨやネトサポみたいな人たちですが、これはデモが正しく機能している証拠だと言えます。

 政権およびそのサポーターにとって迷惑でうっとうしいのは、デモの第二のメッセージが正しく届いているということです。彼ら彼女らが苦々しく思ったのなら、そのデモは成功です。

 もちろん彼ら彼女らは自分が迷惑だとは言いません。通行人やお客が迷惑だと他人の迷惑という話しします。けど、それはたいていウソです。迷惑だなと思っているのは自分自身です。

 

 96日に新宿の歩行者天国で1万人規模の反安保法制の集会が行われました。

 ここでもツイッターなどで通行人や客に迷惑だと非難する輩が現れました。

 しかし彼らが実際に新宿で迷惑と被ったわけではなく、また迷惑だったという人の話を直接聞いたわけでもありません。

 そりゃそうでしょう。関係者のツイッターによると、主催者側は歩道に通行スペースを確保するよう人員を配置して通行人や買い物客に悪影響が出ることを防いでいたんです。しかもこの日は天気が悪く、ホコ天にはもともと人が少なかった。商店はデモ参加者のおかげで却って潤ったかもしれません。

 自分の主張を通すためにその場にいる(いた)わけでもない人間を引っ張り出すのは卑怯者のやることです。

 

 

 さて、國分の記事が掲載されて3年経過した現在、状況は彼が期待した方向に動いていると言えます。

 現在の反安保法制の運動は、ssh739に書いたように「不慣れな」人たちの運動です。私も2つほど集会に顔を出しましたが、どちらも労組の集会とは全然違って実にユルいものでした。参加者もただ黙って立っていたりしていました。830日の国会前行動にしても、メイン会場以外あちこちでミニ集会のようなものが行われていたと高橋源一郎がレポートしています。

 一糸乱れぬ統制はないが、しかし人は集まっている。その規模は民衆が群衆となって手に負えなくなる恐怖を政権側の人間に与えていると思われます。

 これだけの人数が集まったのも、旧来の政党色の強い運動が掲げてきた大きな正義ではなく、立憲主義とか憲法守れとかとにかく廃案とか戦争はイヤだといった、自分たちの身近な言葉で語られる問題意識ゆえでしょう。特に戦争はイヤだという認識が当事者である若者から出てきたことが大きかった。

 SEALDsは國分の言う「身近なところと遠いところ」をつないでみせたのです。


 

nice!(0) 

nice! 0