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ssh98 ssh的競争原理教育考 [競争と共生]

<2007>

 redさんのブログに刺激されて、改めて教育現場への競争原理導入について考えてみた。
 もちろん、教育の世界には昔から競争がある。成績、スポーツ、その他、生徒たちは常に競ってきたというか、競わされてきた。
 昨今の競争原理教育というのは、生徒だけでなく、教員や学校もお互いに競い合うことを推進するというものだ。
 
 生徒の競争は、ここでは扱わない。長くなり過ぎる。
 
 競争原理教育の導入理由は、もちろん、そうすることで教育がよくなるというものだ。大雑把に言うと、以下のような理由のようだ。

 ・教育現場には悪しき平等主義がはびこっていて教育をダメにしている。競争原理でそれを打破せよ。
 ・お互いに競い合うことで切磋琢磨され力量が伸び、教育全体のレベルが上がる。
 ・生徒保護者はよりよい教育を選択する権利がある。今の教育はそれを許さない。

一方、反対側の主張はと言うと、以下のようなものだろうか。
 ・すべての生徒が等しく教育を受ける権利がある。悪平等主義というのは言いがかりだ。
 ・お互いに競い合うことで疑心暗鬼となり、教育全体のレベルが下がる。
 ・よりよい教育が選択できるのは都市部や裕福な層だけである。イナカや貧乏人には選択そのものができない。

 僕自身は教育現場と競争原理はさほど相性はよくないと思っている。だが、だからと言って「とにかくハンターイ!」と叫んでいたのでは思考停止になってしまう。ものを考える時は、理性的にならねばならない。そうでないと、ただ相手のアラを探して口汚く攻撃するような状況に堕落しかねない。ここは2ちゃんねるではないのだ。

 先日、選挙があった。
 選挙があったということは、僕の住んでいるところでは、立候補者が定員を超えたということである。立候補者が定員ピッタリなら選挙はない。無投票で当選となる。

 これは何を意味するのか?
 競争は、定員オーバーの時にしか起こらない、ということではないのか?

  sshは大学受験ネタの多いブログである。
 大学受験の様子は、少子化でずいぶんと変わった。
 受験生の数が、日本中の大学の定員を全部合わた数と、たいして違わなくなった。
 もちろん、現実には競争の激しい大学とそうでない大学がある。が、志願者が定員に満たない大学では、まず滅多に不合格者は出ない。(高校でも同じだ)
 定員を超えないと、競争は成立しないのだ。

 そういうことを考えているうちに、昔やったクイズを思い出した。

<100チームが出場するトーナメントで、優勝が決まるまでにには合計何試合が必要でしょうか?>

 有名なクイズなので、答えを知っている人も多いと思う。
 正解は、99試合。
 組み合わせ表など書く必要はない。
 トーナメントでは、優勝チーム以外はすべて敗退する。最後まで敗退しないのは、優勝するただ1チームだけだ。
 敗退というのは、試合に負けるということだ。ということは、敗退チームの数だけ試合の数もあるということになる。
 だから、全チーム数から、唯一全勝する1チームを除いた数だけ、試合は必要となる。常にそうである。トーナメントの最低必要試合数は常に、全チームから1を引いた数である。
 優勝する1チーム以外の全チームを敗退させられるだけの試合数が必要なのである。

 ここまで考えた時に、自分の中で変化が生じた。
 大げさに言えば、宇宙が回っていると思っていたのが、実は回っているのは地球の方じゃないのかというくらいの変化が。

 競争というのは、勝者を決めるためにある。
 そう僕は思っていた。
 だが、もしかして、それは違うんじゃないのか?

 立候補者が定員以内なら、選挙という競争は起こらない。
 受験者が定員以内なら、競争率は1以下となる。
 トーナメントの試合数は、敗退するチーム数。

 であれば、
 これこそが、競争の本質ではないのか?すなわち、

 競争は、敗者を決めるためにある。

 1つの仮説を思い付いたら、今度はそれを検証せねばならない。
 競争は敗者を決めるためにある、という仮説で、世の中のいろいろな競争を見てみた。
 オリンピックの代表選考、就職試験、市場でのシェア争い、その他諸々、世の中の競争はどれもこれも、敗者を決めるための争いだ。
 代表候補が定員以内なら、選考などいらない。募集定員よりも志願者がすくなければ、就職試験など不要だ。

 市場原理と言っても、どれを買うか=どれを買わないかだ。「どれも買わない」とか「全部買う」という選択があれば話は別だが、要は選べるものの中から一番マシなものを残してあとを捨てているだけだ。 

 そうであれば、学校や教員に競争を求めると言うのは、結局は、負け組の学校や負け組の教員を作り出すことが最大の結果となりはしないか?
 無論、中にはそこまで明確に主張する論客もいる。
 曰く、「生徒保護者に選ばれないような学校はいらない」
 曰く、「ダメな教員にはやめていただく」。
 
 それが本当に国民的合意であれば、それはそれでいいと思う。
 だが。
 学校を選びたくても選べない生徒保護者が、この国にはゴマンといる。
 半径数十キロ以内にある学校は村立の1校だけ、しかも小学校と中学校が一緒、というような地区は、別に南米やアフリカの話じゃない。この国のあちこちにある話だ。

 ダメな教員にやめていただくのも、命題としてはマトモだ。
 自分の子どもをわざわざダメな教員に担当して欲しい保護者はいまい。
 だが。
 何をもってダメとするのか、その評価基準を設定するのは困難だ。
 処分歴のある教員がダメ教員だとしたら、君が代問題で処分を連発する東京都はダメ教員の宝庫ということになる。
 授業がヘタクソでも君が代さえ歌えば処分は免れるとなれば、処分歴は教員のダメさ加減の指標にはならない。
 
 いや、評価の問題はやめておく。これはこれだけで大きな問題だ。
 とりあえず、ほとんど奇跡的に評価は正当に行われ、本当のダメ教員が競争に負けて敗退したとする。
 その穴は埋まるのだろうか?
 学校で優秀な仕事をする人間は、恐らく他の仕事でも有能だろう。
 給料はカット、残業代はゼロ(まさにナントカエクセプション)、責任だけは重く、競争に負ければダメ教員として敗退するというような状況に、わざわざ志願してくれる「優秀な」人材が、果たして十分にいるのだろうか?

 さらに。
 競争が敗者を作るためにある、という仮説に立てば、自分が勝ち残るためには、相手が潰れてくれるのが一番ラクだ。競争相手がいなくなれば、競争はなくなる。天国だ。
 となれば、自分達が努力して能力を磨くことよりも、競争相手が伸びないように、潰れるようにしむける方が効率がいい。
 競争相手たるヨソの学校に、自分達の実践のいい部分はなるべく見せない方がいい。
 競争相手たる同僚の先生に、自分のやり方やワザはなるべく教えない方がいい。
 
 日本の産業が世界のトップレベルにまで成長した秘訣の一つに、技能の共有というものがある。
 一人の技術者の発明を、会社全体が共有する。
 一人の工員の発見を、工場全体が使う。
 そうすることで、日本の会社は成長してきた。

 もし競争主義が経済界でも徹底すれば、
 優秀な技術者は、自分の発明を会社には明かさなくなるだろう。
 そして、実際にそうなりつつある。
 青色ダイオード訴訟での中村教授の勝訴は、そういう意味があった。

 今後、技術者は会社や全体のためでなく、自分が勝ち残るために働くことになるかもしれない。
 まさに競争主義だ。
 しかし、それで日本の産業はレベルアップするのだろうか?

 競争は敗者を作るためにある。
 この仮説は、僕の中で、確信に近付いている。

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