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ssh189 痛い目に会わないと分からない、としても [リテラシー・思考力]

<2008>

 

 今や大ベストセラー作家となった藤原正彦氏が、以前新聞にごく短いコラムを書いていました。

 その中で気に入ったものを1つスクラップしてあります。もう何度か高校生にも読ませたコラムです。

 

 テーマは、「他人に迷惑をかけてはいけない」とよく言われるが、では「他人に迷惑でなければ何をしても良い」のか?

 藤原氏はこれを、道徳論や心の問題としてでなく、純粋に論理的に(言い換えると数学的に)その答えはNOであるとしています。


 と言っても、短いコラムですから、話はしごく簡単。

 「ABである」からと言って、「BAである」とはならない。

 数学的に言うと、「ABである」という命題が真であっても、「BAである」という命題が真とは限らない。逆は必ずしも真ならず、というヤツです。

 「アメリカ大統領はブッシュ氏だ」は真、「ブッシュ氏はアメリカ大統領だ」も真。これは逆もまた真なりの例。

 しかし、「雪は白い」は真だが、「白いものは雪だ」は真ではない。白いものは雪以外にもいっぱいあります。「出来の悪い学生の答案も白い」とは藤原氏の文面。

 

 「他人に迷惑をかけてはいけない」という命題が、仮に真であるとしても、ただちに「他人の迷惑でなければ何をしてもいい」が真であることにはならない。この2つの命題は、イコールではないのです。

 

 逆は必ずしも真ならずというのは、高等数学の内容じゃありません。中等レベルです。

 だが、しかし、私たちは、ついこのミスを犯すんです。


 

 1つだけ、最近気になっている例をあげます。

 

 今、世の中は強硬姿勢がけっこうはやってるみたいです。毅然とした対応、断固たる姿勢、厳格な親、厳罰、強く出る外交などなど。

 で、よく、こんなことを耳&目にします。

 

 相手国に下手に出るからなめられるのだ。強くでなければ変わらない。

 子どもを甘やかすからつけあがるのだ。痛い目に会わなければわからない。

 

 気になっているのは、この後半部分。

 仮に「強くでなければ変わらない」という命題が真であったとして、ただちに「強く出れば変わる」ということになるのか?

 仮に「痛い目に会わなければわからない」が真であったとしてだからと言って「痛い目に会えばわかる」ということになるのか?

 

 逆が成り立つためには、例えば後の例であれば、「痛い目に会っても、なおかつわからない」という者がゼロであることを証明しなければならない。

 もちろん、これは不可能です。

 というよりも、現実問題として、痛い目に会っても、なおかつ反省しない人間というのは、たぶん存在するでしょう。

 

 痛い目に会わなければわからないとしても、痛い目に会えば必ずわかるとは限らない。

 論理的には、そう言わざるを得ません。

 

 よく教育論で、温情派vs厳格派ってのがあります。

 話せばわかる、という温情派と、痛い目に会わなきゃわからない、という厳格派の対決。TVのトークバトルに使えそうなネタです。

 

 でもね。

 子どもに何かをわからせたい、どうしたら子どもはわかってくれるか、

 出方次第で子どもはわかってくれるはずだ

 という点において、両者はまったく同じなんです。

 

 どんなことをしてもわかってくれない子どもの存在は、両者とも、ハナっから除外しています。

 そういう点では、温情派も厳格派も、実はずいぶんと楽観的です。

 

 同じことは、外交論議でも言えますね。

 強く出ないと変わらない、と主張する人は、実は強く出さえすれば変わるはずだと、楽観的に見ているフシがあるんじゃないでしょうか。

 強く出ても変わらない、強く出たらかえって悪化する、そういうシナリオまで考えてないんじゃないかと。

 

 何にしても、

 「○○しなければ××できない」からと言って、

 「○○すれば必ず××できる」とは限りません。

 

 ついでに言うと、勉強の話にしても、「やらなければできない」は真ですが、「やれば必ずできるようになる」とは限らないです。やる方法や量がまずければ、できるようにはなりません。


 

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