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LHR20 筋を通した先にあるもの [ご挨拶&エッセイ]

<2008>

 

 sshは「言葉による自己表現」をテーマにしている。

 気分や情緒で「斬る」ことでは物事は見えて来ない。自分と正反対の立場であっても、敢えてその立場に立ってみた時に初めて見えてくるものがある。

 そうやって、筋道を通して、言葉や論理や事実で冷静に考えていくことこそが、むしろ相互理解の近道であると。

 僕自身は以前からそう考えてきたし、今でもこの考えに異論はない。

 

 ただ、それは必ずしも筋道を通しさえすれば相互理解ができる、という意味ではない。

 人間はミスを犯す動物だ。というか、ミスを繰り返す動物だと言ってもいいと思う。

 よく「同じミスを犯すな」と言われるが、この言葉が重い意味を持つのは、それだけ同じミスを繰り返す人間が多いということでもある。

 

 誰しもミスを犯す。ミスに対して、人は謝罪なり償いなりをせねばならない。過ちにはそれなりの対応をせよ、と。

 

 無論、これは正論だ。正論に異論を挟む余地はない。

 だが、正論は正論であるがゆえに、うっとうしいものだ。


 

 例えば、あなたの友達が何の連絡もなく約束をすっぽかしたとする。

 一旦約束したものを、勝手にすっぽかすのは悪い。この友達の行為は、100%悪い。きちんと謝罪するのが筋である。

 そこであなたが、こう詰め寄ったとしよう。

 「なぜ来なかったの?来なかっただけならともかく、なぜ連絡もくれなかったの?ずっと待ってたのよ。こっちからも何回も連絡入れたのに、留守電で全然つながらなかったし。どういうことなの?連絡くらいくれなきゃ困るじゃないの。いくらなんでも非常識よ。」

 

 こう詰め寄られたら、相手はどうするか。

 1 深く反省し、心から謝る。

 2 正論をまくしたてられて面白くないが、とりあえず表面上は謝る。

 3 世論をまくしたてられて面白くないので、表面上の謝罪もしたくなくなる。

 4 もっと複雑な事情があったのだが、言えなくなってしまい、黙っている。

 5 その他。

 

 約束をすっぽかしたこと自体、弁護の余地はあまりない。

 だが、どんな行為も、まったく独立して存在している訳ではない。そこに至るまでにいろんなことがあったかもしれない。その後に、いろいろあるのかもしれない。

 

 ある行為が弁明の余地のない「悪」だからといって、それを糾弾して断罪して、きっちり謝罪させれば、ものごとは好転するのか?

 そうとは限らない。

 友達付き合いでいちいち筋を通したのではカドが立つ。

 もっと大きな、例えば外交問題のような場合でも、筋を通すことに執着して、謝罪だ何だと求め過ぎることがかえって感情的な対立を生むこともある。

 

 学校の仕事にもこういうことはある。

 「生徒へのツッコミはほどほどにしておく」

 

 時折、生徒への体罰やら何やらで処分される教員がいる。で、たいていの場合、「熱心な教師だった」というコメントが紹介される。

 

 熱心だから困るのである。

 

 いや、たいていの場合、そういう「熱心」な教員は正論を述べている。例えば、遅刻をゼロにせよ、生活面をきちんとしろ、服装をただせ、茶髪なんか論外だと。その通りである。僕もそうであって欲しい。

 

 人間が人間を指導するのだ。うまくいかないことはあって当然だ。

 だが「熱心」な教員はそれが気に入らない。100%徹底しないと気が済まない。

 

 自分の経験でも、体罰まではいかないまでも、生徒の自尊心から人格からズタズタにするような対応をする教員はいた。僕はいたって不熱心な教員なので、そういう「熱心」な教員と、敵視された生徒&保護者の間に挟まってとりなすというような役回りになってしまうことが多い。

 

 「熱心」に筋を通そうとすると、相手に屈服することを要求するようになる。

 だが、人間だれしも、屈服は屈辱だ。

 自分が悪いと分かっていても、屈服するのは悔しい。

 いや、自分に理がないこそ、屈辱的だと言える。

 

 こういうものは、立場を逆転してみると想像がつくかもしれない。

 つまり、自分の落ち度で他人に迷惑をかけたと、自分でもわかっている時に、えらい剣幕で他人から糾弾だれ断罪され謝罪を強要されたら、自分は心から謝罪する気になるだろうか?

 

 sshは、気分や情緒よりも、筋道や論理や言葉を重視する。

 だが、それでもなおかつ、人間社会はリクツ通りにはいかないのだ。

 たとえ相手に理がなくても、それを責めて謝罪を求めるのが得策なのか?

 

 「議論には勝ちました。交友はなくなりました。」というのは、誰しも求めるものではないだろう。


 

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