ssh229 凶悪犯罪と厳罰の関係 [社会]
<2008>
ひき逃げ、というか、引きずり逃げ。
元厚生労働省事務次官連続殺害。
今月は暗い話題が連発です。
近年、凶悪犯罪が減少していることについてはsshは一貫して伝えています。
いますが、だからといって、個別の事件の凶悪性がなくなってるわけじゃありません。凶悪なものは凶悪です。
さて、凶悪犯罪が起きると、決まって出てくるのが厳罰論。
許しがたい犯罪だ、加害者を厳罰に処せと。
根底にあるのは、厳罰化によって犯罪を抑止しようという狙いでしょう。
ところが、今回は逆の主張を紹介します。
厳罰化は犯罪抑止につながらない
あるいは
厳罰化が犯罪を凶悪化する
まずは前者。厚生労働省元次官襲撃事件に関する記事です。
出所はジャーナリスト・坂本衛氏のサイト。
◆◆今回の事件は襲撃対象が特定されていたようだが、秋葉原の事件はじめいくつかの典型的な通り魔殺人事件では、容疑者は「殺すのは誰でもよかった」と語る。いずれにせよ、社会や他者に対するムチャクチャな逆恨みがあり、自分は社会や他者から必要とされておらず、社会や他者のなかに居場所がなく、悪いのは社会や他者だという感覚が、強くあると思われる。そのような人間が多くいる社会は、危険で、大多数のまともな人びとにとって住みにくい社会であるから、社会として対策を講じるべきだ
その意味では、かつては血縁共同体や地縁共同体が、一種の社会的なバッファ(緩衝材)やセーフティネットの役割を果たしていた。本家分家といった親戚関係もそう。親戚に一人はいた、ヘンに物わかりのよいヤクザなおじさんもそう。若衆宿(若者宿)や娘宿もそう。長屋(「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」の発想、世話役や「兄い」「あにさん」の存在、月番を決めた共同生活)や向こう三軒両隣や隣組や近所付き合いもそう。ヤクザの親分子分のような擬制的血縁関係やゴンゾウ部屋もそう。それらが、危ない連中や病気になりかけた連中に居場所を提供し、指導や矯正の場所となっていた。工業化、都市化、核家族化、少子化、情報化などによって、そういったものが崩れた。新たなバッファやセーフティネットが必要だが、その再構築には20年や30年という長い時間がかかるだろう(それ以上の年月をかけて崩れてきたのだから)。それでも、いまから手を着けるべきではないか
なお、凶悪犯罪に対する厳罰化は、今回のような事件には抑止効果がない。社会的な居場所がなく、自分がどうなってもよいと考えていることが事件の大きな要因だとすれば、死刑になろうが監獄にブチ込まれようが本人はどうでもよいのであって、やったヤツを死刑にしても、やるヤツの数は減らない。以下は事実を異なるかもしれず、誰かに調べてほしいと思いますが、この種の犯罪者は、刑務所で規則正しく、おっかない看守や先輩受刑者のなかで生活し、決められた作業なんかをやると、ほとんどキレたりせずにおとなしく、むしろ生き甲斐を感じてくるんじゃないかという気がします。つまり、監獄で居場所を見つけると。あくまで推測ですから、メディアには追跡取材をしてもらいたいと思いますけれども◆◆
坂本氏の主張は、要約するとこんな感じでしょうか。
・ 凶悪犯罪の動機が逆恨みだとしても、その根底には社会からの強い疎外感が働いている可能性がある。
・ よって、社会としてセーフティネット構築などの対策を取るのが得策である。
・ 強い疎外感を持ち「自分なんかどうなったっていい」と思っている人間に厳罰の効果は期待できない。
これ、かなりうなずけますね。
人間、自暴自棄になったら止まりません。
落ち着いてよく考えてみれば、どんな人間だって、どうなったっていいわけなんかないんですが、落ち着いてる時にゃ、事件なんか起こしません。凶行に走るのは落ち着いてない時。
居場所がないってのは、落ち着きません。落ち着かないだけでなく、落ち込みます。
まず、居場所を。
居場所のない人間に「そんなことすると死刑になるぞ」と脅しても、虚しいでしょうね。
続いて後者。
こちらは「おすすめサイト」でも紹介した、小論指導のプロ・吉岡友治氏の記事です。
◆◆この頃、ひき逃げ事件が連続発生しているという。酒に酔って人をはね、そのまま何キロか引きずって死なせた、という凄惨なものが多い。どうしてこんなひどいことができるのか? おそらく、原因は飲酒運転に対して厳しい罰を課すようになったことにあると思う。だから、人を引いたときに「逃げた方が得だ」というコスト計算が働くのだ。
厳しい罰があるからと、普通の人は安心する。自分だったら、罰が怖いから飲酒運転はしない、皆も同じように考えるだろう。だから飲酒運転は減る、と思うわけ。しかし、そういう風に自分を律することができる人は、そもそもひき逃げなんて事故を起こさない種類の人間だ、とは考えられないだろうか?
我々は、つい自分を尺度にして考える。厳しい罰を予想すると行動が改まるはずだ、と善良な市民ならば誰でも思う。しかし、飲む奴は何があっても飲む。実際、事件を起こした者は過去にも酒気帯び運転で捕まっている。つまり、この世には懲りない人々がおり、そういう人間が事故を起こす確率が高いのだ。だとしたら、罰を厳しくしても反省しないから、事故抑制効果はない。あるのは、ひき逃げ事故を起こさない人間が安心するというアナウンス効果だけなのである。◆◆
吉岡氏の主張は、
・ 厳罰化が「逃げるが勝ち」という計算を誘発している。
・ 厳罰を恐れるのは善良な人間だけであり、凶悪事件を起こすような人間は厳罰を恐れない。
私としても、かなりうなずける主張ですね。
1つ目の主張については、学校でも問題行動(喫煙とか窃盗とかその他)を起こした生徒への指導がありますが、一罰百戒の姿勢だと、うまくいかないんです。
指導ってのは、とにかく「確かにやりました」と本人が認めてくれて初めてスタートするんですが、厳罰主義だと、生徒はなかなか認めません。バレたら厳しく処分されから、とことんシラを切ろう、となっちゃうんで。
学校が荒れる→厳罰で臨む→生徒はシラを切る→態度が悪いと、厳罰化に拍車がかかる→ますます問題は地下潜行するーという負の連鎖です。経験談です。一罰百戒をやめて生徒の言い分をなるべく話させるようにしたら学校はずいぶん落ち着きました。
一方、2つ目の方ですが、これはssh222「違ったもの同士の共通点」に通じるものがあります。
ssh222では、子どもは厳しくしつけるべきだという意見と、子どもは大らかに育てるべきだという意見は どちらも「子どもは教育できる」という前提に立っている、と私は書きました。
厳罰化肯定論にも、これと同様の落とし穴があります。
厳罰による犯罪抑止力を主張する根拠は、厳罰化すれば、罰を恐れて犯罪を思いとどまるということでしょう。
これはつまり、凶悪犯罪予備軍に、罰を恐れて思いとどまるような判断力=理性があることを前提としています。
落ち着いて考えてみると、これ、相当のどかなお話じゃないですか?何せ凶悪事件を起こすような人ですからねえ。
あるんでしょうか、理性。なさそうな気がしますが。
え、そんな言い方はないって?もっと人間を信じろ?
人間を信じるんだったら、そもそも厳罰なんていらねーじゃん。
ここからが私の意見ですが、私は、吉岡氏の「コスト計算」と坂本氏の「居場所」を掛け算したところに正解がありそうな気がします。
それは、一言で言えば、犯罪なんかしないほうがトクな社会。
言い換えると、「悪いことはワリに会わねえなあ」と思ってもらえるような社会。
きれいに言えば、「生きていればきっといいことがある」と思える社会ってことになりますか。
トクというのは、まあ何でもいいんです。
ゼニでもいいし、モテでもいいし、新作映画の公開でもいいし、メシでもTVでも趣味でもなんでも。
悪いことをしてつかまると、いいこと・楽しいこと・素敵なことができなくなっちゃう、
そう思えるような社会ということです。
とかく世の中は思うように行きませんけど、それでも「そのうちいいこともあるさ」と思えれば、自暴自棄にならんで済む可能性は高くなります。反対に、来る日も来る日も「どうせいいことなんか起きない」と思っていたら、そりゃあキレます。
社会は、何かいいこと・楽しいことを人々に供給する必要があります。
これはメーカーや映画会社や料理人だけでなく、官民関係なく、味わう側も含めて、みんなの仕事。
で、そういった何かいいこと・楽しいことをまあまあ味わえるくらいの生活レベル=経済力を、社会は人々に保証する必要があります。これは政治の仕事。
私は昨今の厳罰論はキライです。
アブナイ奴は抹殺してしまえ、という排除の感覚がプンプンと臭うのが1つ目の理由。
抑止抑止といいながら、厳罰の抑止効果を立証してくれないのが2つ目の理由。
一罰百戒の弊害を身をもって知っていることが理由その3。
そして4つ目の理由は、結局は犯罪予備軍の「理性」に期待するだけの、ノホホンとしたお気楽な主張だからです。
ついでに言うと、厳罰主義の人って、自分の主張は弱点があるかもしれないとか、自分の意見には矛盾や間違いや不足があるかもしれないとか、そういう怖れの感覚がまるでない人が目立つんですよね。
威勢がいいとホメるべきか、傲慢とケナすべきか。
自らの正義を省みることのない文章は、小論の答案なら全面的に書き直させるんですが。
コメント 0