SSブログ

ssh256 大きな権限を持った人間に自己責任を問うことは可能か [社会]

<2009>

 

 この記事は、sh228「自己責任~小論キーワード」の続編のようなものです。

 

 ssh228で書いたのはこんなようなことです:

 自己責任という日本語は割合と新しい造語であること。

 国際的にはあまり通用しないものであること。

 近代における「責任=responsibility」は文字通り何かに対する「応答能力」の意味であること。

 従って、応答すべき契約が二者の間にあって初めて発生する概念であること。

 自己責任という日本語はresponsibilityとは異質のものであること。

 以上のようなことから、小論文の根拠に自己責任という語を使うのは避けた方がいいこと。

 

 その後、Hiraさんからコメントにて、自己責任を英語にすると at one's own risk ではないかとの指摘を頂きました。リスクを自分で背負って行動せよという意味であろうと。

 Hiraさん鋭い。この指摘、いただきです。

 

 自己責任というのは、結局のところ、自業自得とか、自分で蒔いた種は自分で刈れとか、そういう意味で使われていると考えるべきでしょう。

 責任という言葉を使うから、話がややこしくなるんですな。自己責任の「責任」はresponsibilityとは異質なものです。


 まあそれでも、日本限定でも何でも、とにかく、社会には自己責任の原則がある、ということに一応してみましょう。自分の判断・選択で行った行為の結果は、自分で責任を負うのが原則である、と。


 では、ちょっと検証してみましょう。


 

 受験生が、先生がムリだと止めたにも関わらず無謀な出願をして、結果として(当然ながら)全滅して浪人したとしても、それは本人の責任である。先生に文句を言うのは筋違い。


 


 これはまあ、誰しも納得しそうな話です。




 危険地帯であることがわかっていたにも関わらず、自分の判断でそこに足を踏み入れて、結果トラブルに巻き込まれたら、その責任は自分で負うべきである。他者の助けを求めてはならないと。


 


 これはかなり物議を醸しましたね。


 責任=応答能力と考えれば、国にはただちに救援する責任があるわけなんですが、しかし、ご存じの通り、イラク人質事件発生当時は上記のような主張をする人が主流でした。




 さて、それでは、次のような場合はどうでしょうか?


 


 ある食品会社に、安価だが安全性に疑問のある原料の売り込みがありました。社員はその原料の使用はやめるべきだと考えましたが、社長はコストダウンのためにその原料を使うことに決めました。しかし、この原料には毒性の強い化学物質が混入していて、食べた人のうち10名が死亡し、150名が重度の障害を発生しました。


 


 もちろんまったく架空の例ですが(え、似た例がある?)、自己責任の原則に照らせば、この結果の責任は社長にあります。


 では、この社長は、どうやって自己の責任を取ればいいのでしょうか?




 次のケース。


 


 ある国の指導者が、勝つ見込みのない戦争を始めました。(民主主義が機能していない国と考えてください)戦局は悪化し、戦死者ばかりが増え、領有地もつぎつぎ敵側の手におちました。しかしこの指導者は停戦交渉の機会を逃し、結局国の独立すら失いました。


 


 これも純然たる架空の例ですが(え、まるで某国だ?)自己責任の原則に照らせば、この結果の責任はこの指導者(とその協力者)にあります。


 では、この指導者は、どうやって自己の責任を取ればいいのでしょうか。


 


 自己責任論とはつまり、do at one's own riskということ。


 自分で蒔いた種は、自分で刈れということです。


 


 でも、上の社長や指導者は、自分で蒔いた種を、自分で刈り取れるでしょうか? 


 どう考えても、責任なんか取りきれないでしょう。


 確かに自分で蒔いた種ではありますが、その結果は、自分で刈れるようなものではありません。


 


 仮にその社長なり指導者なりが「死んでお詫びを」と言ったとして、許してもらえますか、そんなことで?


 毒物で死んだり障害を発症した160人に完璧に償うことなど不可能です。


 大量の戦死者と失った領土と主権に対して、死んでもらうくらいで償えるはずもありません。




 自己責任って、自己責任で片付けられるような結果に対してしか求められません。


 蒔いた種が膨大であれば、刈るべき結果も膨大。とても自己の責任で刈り取ることなんかできません。


 言ってしまえば、個人レベルのトラブルに対してしか求められないもの、それが自己責任です。




 社長とか、首長とか、首相とか、その他とにかく、人の上に立つ人間が持っている責任は、社会レベルのトラブルにつながるような巨大な責任です。その個人の責任=自己責任などでどうにかなるようなレベルのものではありません。


 大きな権限を持つということは、人ひとりの力で後始末ができないほどの種を蒔いてしまえるということです。


 


 オレが決めたんだから、オレの責任でやる、なんて言われたって、それは困ります。オレ一人で取りきれるような責任のレベルじゃないです。


 大きな権限を持った人間が蒔いた種は、たくさんの人間の力を借りないと刈れません。




 すると、こういう仮説が立てられないでしょうか。


 大きな権限を持った人間は、自己責任を取れない。


 従って、大きな権限を持っている人間に、自己責任の原則は当てはめられない。


 


 自己責任原則というのは、巨大な結果責任を負う可能性のある社会的強者には適用できない。


 自己責任の原則は、自分一人で刈り取れる程度の結果に対してしか適用できない。


 従って、自己責任原則は、社会的弱者だけに適用できる原則である。




 なるほど。


 道理で、自己責任って言葉は政財界の大物が多用するわけだ。彼らには自己責任は問えないんだから。


 


 自己責任を問われるのは、社会的弱者ばかり。


 


 しっかし、ずるい話ですなあ。そりゃあねえって。


 It's not cricket.(不公平だ!)




 いえいえ。


 社会的強者には、社会責任の原則が適用されるのですよ。


 当然です。彼らのとった行動や政策の結果は、社会全体にかかわる大問題なんですから。


 自己責任で片付けられない以上、自分勝手な行動は許されない。常に社会の中での自分の責任を自覚して判断行動せねばならない。それが強者の責任というものです。


 強者たるもの、自己責任なんかよりはるかに重い責任を背負わねばならないのです。




 なお、本記事中で社会的強者と社会的弱者という言葉が使われていますが、これは大変に雑な使い方でありまして、社会の中での相対的な強者と弱者という程度の意味です。さしたる明確な定義を持って使ってはおりません。もっといい言葉もあるとは思いますが、今回はこれで行かせていただきます。


nice!(1) 

nice! 1