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LHR28 壁と卵と男と女 [ご挨拶&エッセイ]

<2009>


 


割れて~ 割れて~ 割れ潰れて眠るまで~ときたもんだ


 


 村上春樹の「壁と卵」スピーチは、ずいぶんと喝采を浴びているようです。大手マスメディアはどれも絶賛です。


 村上ファンを自認する内田樹も「非常にクリスプで、ユーモラスで、そして反骨の気合の入ったよいスピーチである。」とホメてます。


 


 しかしまあ、あまりみんなが絶賛するのはよろしくありません。


 ホントはいいスピーチだと思っていても、あえて「そうかなあ?」と言い出す人もいないと、世の中のバランスってものが壊れちゃいます。バランスの狂った社会は、卵を壊す壁になりますからね。


 そういうわけかどうかは知りませんが、ここんとこ、批判的な言説もちょこちょこと出て来てます。




 斉藤美奈子は朝日新聞連載の文芸時評で疑義をはさんでいます。


 壁と卵という比喩に対して「私は壁の側に立つ」と宣言する人間なんかいるわけない、政府関係者だってこういう比喩に対しては「卵の側に立つ」と必ず言うはずだ、総論というのはどれもこれもかっこいいものであり、対して各論である現実の卵たち、つまり市井の人間はかっこよくも何ともない存在だと。


 


 

 そうでしょうね。

 「誰が何と言おうと、私は断固として壁の側に立つ。そして卵を潰しにかかる。」んなことフツー言わねーよな。社会的地位のある人ならなおさら。

 いや、言わないどころか、思いもしないでしょう。今、壁として機能しているイスラエル政府の皆様方だって、自分は卵の側に立ちたいと心底思っているのかもしれません。

 

 思っていることとやることが矛盾するのは、よくあることです。

 面白くもなんともない、至極当たり前のお話ですが。

 人間って、厄介です。

 

 

 話が突然本業ネタに飛びます。

 

 英語教科書というのは、題材選びが実に大変であります。歴史教科書みたいなミョーな騒ぎは幸いにしてないんですが、そーゆー外患がなくたって、教科書作りは大変な仕事です。って、教科書作ったことないけど、絶対そうのはず。

 

 私が本業で最近扱ったレッスンに出て来たのは、トマス・ジェファーソンとか、トマス・エジソンとかいうような人たちでした。(なぜかThomasばっかり)

 こういうのは問題ないんですよ。歴史的評価も固まってますし、第一、ご本人が奇跡じゃなくて鬼籍の人、もう死んじゃってます。本人に許可を取る必要もないし、著作権云々の問題もないし、作る側からすれば最適な題材です。

 

 でもねえ、歴史上の人物に興味関心持ってくれる生徒なんて少数ですわ。

 

 教科書は教材であると同時に、商品でもあります。売れなきゃ商売になりません。出版社も必死です。採択されなけりゃどーにもなりません。とにかく、ウケが良くないと。

 できれば、生徒に興味関心を持ってもらえる題材を選びたいんですよね。その方がウケがいい。だから、英語の教科書のネタは、けっこうアップトゥデートです。

 

 30年ばかり前、私が高校時代に読んだ英語教科書にはチャールズ・シュルツが出て来ました。(シュルツって『Peanuts』の作家ですよ。スヌーピーとか出てくるあのマンガ描いてた人。)

 一方、現在ウチのバカ息子が使ってる中学教科書には新垣勉が出てきます。やっぱ、こういうネタの方が身近でウケがいいです。


 しかし、これがトラブルの元だったりするんですね。

 今生きてる有名人となると、許諾もいるし、著作権やら何やらも絡んで来るし、かなり面倒な仕事になります。

 

 前述のシュルツが出て来たレッスン、音声テープ(当時まだCDはなかったのよ)がありませんでした。理由は、シュルツが許可しなかったから。

 なんで?という気はしますが、本人がヤだと言ったら従うしかないですわな。


 許諾権という壁の前には、出版社も学校も卵となるしかありません。

 と、ここでムリヤリ本題を蒸し返しておいてと。

 

 

 今年もちょっとしたトラブルがありました。

 

 某出版社が作成した某教科書に、とある有名な作家を題材としたレッスンが使われる予定になっていました。見本も配布し、採択も終了して、さあという矢先に、その作家からクレームがついてしまいました。

 

 なんで? なんでこんな間際になって?

 という疑問はもちろんあるんですが、それは置いといて(作家には作家なりの事情があるのでしょう、たぶん)出版社は大慌てで本文を手直ししました。とにかく何とかこの題材で行きたい、もう採択も済んでるし、差し替えはお客(学校)に迷惑千万。

 

 で、改変したレッスンでお伺いをたてたところ、あえなく玉砕。

 またもやダメ出しされてしまい、万事休す。

 結局このレッスンはボツとなり、出版社はレッスンを他のものと差し替えざるを得ませんでした。

 

 その後のこの出版社の苦悩というか苦闘は、まあ凄惨極まりないものでした。

 全国の営業担当が採択した学校を回って事情説明とお詫び、お詫び。

 教科書ってのは、4月以前に使用されるケースもありますから、そういう学校はもう大変。代替教材を格安で提供したり、コピーを無料で配布したり(ダメ出しのおかげで印刷が大幅に遅れた)。出版社は相当な出血だったはずです。

 もちろん、使用予定の学校は大大大迷惑を被りました。

 

 許諾権という壁の前に、出版社&学校という卵はボコボコに割られてしまったのでした。


 さて、察しのいい読者の方なら、「もしや?」と思って読んでくださったのではないでしょうか。

 その「もしや?」は、当たってます。悲しいことに。

 

 私は常に卵の側に立つ、と宣言した当の本人が、意図はない(と思いますけどね)とはいえ、まったく時を同じくして、壁となって大量の卵を割っていたと。

 

 

 ま、文学者と言えども、

 現実の生身の人間(生卵?)ってのは、

 思っていることと行動がしばしば矛盾する厄介な生き物だという、

 面白くもなんともない至極当たり前のお話であります。


 

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