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ssh282 つぶされたらつぶしかえせばいいのか~厳罰主義を考えるヒント  [社会]

<2009>

 

 私は昨今の厳罰論はキライです。アブナイ奴は抹殺してしまえ、という排除の感覚がプンプンと臭うのが1つ目の理由。抑止抑止といいながら、厳罰の抑止効果を立証してくれないのが2つ目の理由。一罰百戒の弊害を身をもって知っていることが理由その3。そして4つ目の理由は、結局は犯罪予備軍の「理性」に期待するだけの、ノホホンとしたお気楽な主張だからです。

 ssh229「凶悪犯罪と厳罰の関係」の一段落です。

 

 私は反社会的行為に対して罰を科すことの必要性は否定しません。(ここんとこ重要です。厳罰主義がキライとか書くと「では犯罪者を野放しにするのだな」とかスーパー低レベルなコメントを投げつけてくるボンクラが世の中にはいっぱいいるんで念を押しておきますよ。)

 否定はしませんが、厳罰を声高に叫ぶ人たちにどーしても共感がもてないんです。ssh229もそういう厳罰主義への疑念を考える上でのヒントとなった記事を拾ったものです。

 

 先日、また別の観点から厳罰主義への疑念を考えるヒントとなる記事に出会いました。ssh194でおすすめサイトとして紹介した、山田ズーニー氏の「ほぼ日刊イトイ新聞 おとなの小論文教室」 

http://www.1101.com/essay/index.html の最新記事Lesson452 生かすために捨てる>。

 

 これはぜひ記事全文を読んでいただきたいです。まず最初のところで紹介されている美容院でのトラブルの話が強力です。

 ◆◆以前、知り合いの美容師さんに、「失敗して、お客さんの髪をヘンに切ってしまったとき、どうやっておわびをするんですか?」と聞いたことがある。美容師さんは、「私自身の経験じゃないんだけど‥‥」と、仲間の美容師さんの、こんな話をしてくれた。

 その日、お客さんは、切られた髪に納得がいかなかった。そうとうに気に入らなかったらしく、怒りがおさまらなかったのだろう。お客さんは、自分の髪を切った美容師さんに向かって「あなたも髪を短くしろ」と要求したそうだ。

 あやまっても許してもらえなかった美容師さんは、お客さんに言われたとおり、自分の髪を切ったそうだ。

 選択は個人の自由だといっても、私はこの話を聞くやいなや、「なんか、ちがう」と思った。

 もっとなにかを「生かす選択」はなかったのか?

 たとえば、後日、すこし髪が伸びたところで、店でいちばん腕のいい美容師に、ただで、髪を整えてもらう約束をもらうとか。それなら、店一番の腕のいい美容師の腕も生きるし、時間がかかっても、そのお客さんの髪も生きる。生きる・生きるの選択になる。

 けれども、自分の髪が気に入らなかったからといって、相手の髪まで切らせてしまっては、つぶす・つぶすの選択になる。

 お客さんは、それだけ怒るということは、そうとうに自分のアイデンティティにそぐわない髪だったんだろう。「髪を切られた、心がつぶれた」という心境だったかもしれない。その痛みは本人にしかわからない、軽いものじゃない。

 けれども、結果的に、自分と同じように、「不本意な髪型」をしなければならない人間をもう一人つくるということは、つまり、2つの心を「つぶす」結果になる。◆◆


 

 心がつぶされる痛みは本人にしかわからない。加害した相手に攻撃的になるのも人情。しかし、その結果、心がつぶされて痛む人間がもう一人増えるだけである。痛みを重要視するのなら、痛む人間を増やすことは果たして正義なのか?

 山田氏はさらに、高校時代に親を医療ミスで失った女性について書きます。

 

◆◆高校生の彼女は泣きながら弁護士に訴えにいった。彼女の話を十分に聞き終わった弁護士さんは、彼女にこういうのだ。「お金がほしいですか?」と。

 訴訟を起こして勝っても、亡くなった人の命はもどってこない。現実的に考えて、一番いい形に裁判が進んで、最高の結果がえられたとしても、戻ってくるのはお金である。裁判は、こちらの思う一番いい形に進むことは少ない。長引くこともある。長引いた場合は、その間ずっと、自分にとって、いちばんつらい、苦しい、悲しいことを、何度も何度も口にし、場合によっては何年も、言葉にして説明し続けなければならない。

 選択を迫られた彼女の胸中はどうだったろうか?訴訟をするにしても、精神、時間、費用、ものすごい覚悟がいる。しかし、訴訟をやめるにしても、どれだけの悔しさ、腹立たしさ、正念が要るだろうか。訴訟をやるもやめるも、十代の高校生ひとりに、とても背負いきれないほどの精神力が要る。ただでさえ、あまりに大きな悲しみの中、どれだけ多くの葛藤、どれだけ大きな精神的苦痛があったか、私は、想像も、筆力も、遠く及ばない。

 想像を絶する葛藤の果て、考え抜いた果てに、彼女は自分の意志で、訴訟をしない、という決断をする。

 それを聞いてまっさきに思ったのは、自分が亡くなった人の立場になったら、ということだ。もしも、私が、愛する娘を残して旅立ったとして、天国から高校生の娘をみたとき、どうおもうだろう。16歳、17歳、18歳といえば、人間としても、感性や、知性、さまざまな能力が、磨かれ、ぐんぐん伸びゆくときだ。人生というスケールで見ても、この時期の選択が、進学につながり、就職につながり、現実の目にする風景を、次々、大きく変えていく。自分が天国にいる立場だったら、死んだ自分のためにではなく、娘が、与えられた能力を存分に生かし、伸ばし、娘自身の人生を生きてくれることを心から望むだろう。娘に、与えられた命を生かしてほしい、と。

 彼女は「生かす選択」をしたと、僭越ながら私は思った。

 誤解のないように言っておきたい。私は、訴訟をしないことが生かす選択だと言いたいのではない。「自分が自分として生きるために、そして自分の愛する人のために裁判で事実を明らかにしたい、事実を明らかにすることが、自分を生かすためにぜひとも必要だ」と考えて、戦うことは、尊く、かけがえのない、その人の選択、「生かす選択」だ。

 訴訟をするかしないか、それもとても大変な選択だが、それよりも、さらに大変で深い、その人の「それを決めた動機」が肝心なように思う。

 後日、大人になって、仕事も成功してから、彼女は、亡くなったご家族のことを本にされていた。私は、玄関先でその本をひらき、ひらいたらとめられなくなり、一気に読んで涙があふれた。あたたかい涙が、あとからあとからあふれ、欠点だらけの自分だけど、生きていていいのだと、自分を生かしていきていこうと、希望にあふれた。◆◆

 

 こんなのは特殊な例だとか、医療ミスと凶悪犯罪は違うとかいう思考停止型のコメントがまたまた聞こえて来そうですけど、しかし私はこういう個別の事例にこそ大きな問題を考えるヒントはあると思います。

 仮にこの彼女が「訴訟をする」と決断したとしても、たぶん彼女は相手を糾弾したり、ましてや相手に厳罰を期待したりはしなかったでしょう。恐らく彼女はただ事実=本当のことを明らかにするために努力したはずです。

 

 

 話がちょっと飛びますが、ここ数年、国内の死刑執行数が急増しております。執行された中には大阪で小学生を無差別殺人した宅間守元死刑囚や、首都圏で幼女連続殺人を働いた宮崎勤元死刑囚も含まれています。この2名が引き起こした事件はかなりの大事件であったため、裁判も刑確定も刑執行も大きなニュースとなりました。

 

 彼らの死刑が執行されて、遺族の心は安らいだのか?

 もちろん答えはNoです。

 では彼らが死刑にならなければ遺族によりマシな展開があったのか?

 これもたぶんNoでしょう。

 

 ただ、こういうことは言えると思います。

 憎い相手に一刻も早い極刑を望むという遺族は当然いるであろうけれど、とにかく真実(犯人が誰かというのは真実の一部)を明らかにして欲しいという遺族もいるでしょう。中には真実がこの上なく重要だから極刑にせず生かしておいて欲しいと願う遺族もいるはずです(現実にいます。実名も知ってます。)

 少なくとも、すべての被害者が「つぶされたらつぶし返す」ことだけを望んでいるなどと、無関係な野次馬である私たちが勝手に決め付けるのは失礼千万です。

 

 

 いや、ちょっと話が飛びすぎました。殺人と死刑は凶悪犯罪&厳罰の中でも飛びぬけて高次のものですから、ここで触れるのはちょっと場違い。

 私がこの記事で考えてみたのは「つぶされたらつぶし返す」は双方を不幸にするということです。そういう選択が有効であることも、それ以外の選択がないときももちろんあるでしょうが、「つぶし返す」のは決して原則でも最善の策でもありません。

 

 え?「じゃあ泣き寝入りしろってことか!」とお怒りですか?

 あのですね、だから最初の美容院でのエピソードにも「生かす選択はなかったのか?」ってあるでしょ。誰も泣き寝入りしろなんて言ってないってば。「つぶされたらつぶし返す」以外の、双方を「生かす」やり方はないのかとあれこれ考えてみましょうということですよ。

 

 

 あ、これは全然余計なことですけど、例えば山田氏の記事の2つ目の引用部分ですが、「誤解のないように言っておきたい。」の段落は、本来なら引用の必要はないんです。これは但し書きというか譲歩の情報であって、いわば枝葉に過ぎません。引用は必要最小限にしたいんですが、何せネット界は誤解の嵐で、この段落をカットするとそれこそ「泣き寝入りを推奨している」とか言い出す唐変木が確実にいるもんだから、本来不要な段落も残さざるを得ないんです。


 

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