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ssh477 「やらされている」と思っているうちは学力は伸びない [教科学習]

<2011>

 

 イナカに暮らす大人たるもの、公民館とか常会とかの地域活動を疎かにすることはできません。

 ゴミステーションの当番とか、たまに回ってくる役員とか、一斉清掃とか、お祭りとかスポーツ大会とか、そういったものにはちゃんと参加しないと。

 今年は7年に一度の神社の御柱(御神木の更新)でした。私も山から里まで10kmほど、でっかい丸太ん棒、もとい御神木を引っ張りました。疲れたけど、なかなか楽しかったです。

 

 とは言え、そういう地区のお仕事が、どれも意義深いというわけじゃありません。中には「なんじゃこれ?」と思うようなものもある。

 今、住んでいる地区の話じゃないんですけど、そこの一斉清掃はかなりナゾめいたものでした。

 なんでそこをやるの?という感じで。はっきり言って無意味な場所の掃除。

 でも、出ないわけにはいかない。出不足金は取られなかったけど、やっぱご近所の手前「いなかった」と認識されるのはイヤですからね。

 

 こういう時の作業は、実に身が入りません。全然やる気が出ない。何せ意義を感じないから。

 仕方ないから、周りを見回して、あまり目立たないように、必要最低限のことだけして、時間が過ぎるのを待つ。

 

 この感覚、覚えがあるなあ。そう、小学校と中学校の掃除や全校作業の時間。

 やらないと怒られるから、仕方なく付き合ってる。仕事はしたくないから、なるべく手を抜いて、しかし先生に怒られない程度には動いて、終了時間をただただ待つ。

 

 実にイヤらしいというか、情けない姿勢です。

 けど、実はこれ、費用対対価ということで考えれば、極めて正しい姿勢です。


 

 ここで挙げた地区の清掃や学校の作業などでは、私が支払う費用(コスト)は労力です。

 では対価となる私の利益は?掃除が行き届いてキレイになること?

 違います。

 地区のなんじゃこりゃ清掃にしても、学校の作業にしても、私はご近所の人や先生に睨まれたくなかったから参加していただけです

 「睨まれない」という利益は、その場に足を運んだ時点でほぼ受益しています。そこで一生懸命働いたところで、私には別段トクはありません。意義を感じてないんだから。

 対価が一定である以上、費用対対価をカイゼンするためには、費用のコストダウン以外に方策はない。

 だから、私は費用たる労力をなるべくケチることによって、コストパフォーマンスをアップしようとしたのですね。もちろん当時そんな意識はなかったですが、今にして思えばそういうこと。

 

 

 割と真面目ないまどきの子どもでも、掃除となると、不真面目だった昔の私のような行動に出る子がたくさんいます。

 こういう時、学校の先生はえてして生徒を締め上げる方向に動きます。清掃の出欠を確認して担任に報告するとか。

 まあでも、あまり効果はありません。

 出欠確認があれば、その場に足を運ぶだけのこと。そこにいるだけで、働きません。

 働くことを課せば、働くカッコをするだけ。ゴミのない場所でほうきをブラブラ振ったりしてます。

 でも、費用対対価的にはしょーがないんですよ。出席が対価なら、出席すればもういただくものはいただいてるんですから。あとはコストダウンに邁進するのみ。

 

 

 人間、「やらされている」という気持ちでいると、こういう行動に出るものです。

 「やらされている」だけなら、なるべく余計なことをせず、手を抜くのが正義です。

 

 

 さて。

 教科学習についても、残念ながら「やらされている」気分の生徒はいっぱいいます。高1生くらいまではほぼ全員と言っていいかもしれない。

 こういう生徒は、学業でもやはり同じ行動に出ます。「やらされている」気分の生徒は必要最低限のことしかしない。間違っても、必要以上の余計な取り組みはしない。提出ノート1ページがノルマなら、その1ページを上手に埋めることしかしない。区切りが悪いから1ページ半までやるなんてことは、それが対価につながらない限り、やらない。

 先生がチェックすることだけが「課されたもの」なのであって、チェックされないことはやるだけムダなのでやりません。

 (ここでいう必要最低限は教員の求める必要ではなく、生徒が必要と感じているものという意味です。例えば「進路は決まったからもう成績なんかいらねえよ」という生徒にとって必要なのは卒業することだけです。)

 

 当然、学力は伸びません。

 仕方ないから学校はノルマを増やして何とかしようとするわけですが、思ったほど効果は上がりません。どーせやっつけ仕事しかしませんから。だからって放っておくわけにもいかないから、イタチごっこをやるわけですが。

 

 

 一方、まったく同じ学校で同じ授業を受けているのに、メキメキと力をつけている生徒もいます。

 こういう生徒は、教員が求める最低限のことよりも余計なことをやっています

 先生がチェックをしないこともやります。音読したり暗唱したりもする。

 こういう生徒は、「やらされている」という気持ちがもうない。

 学校がやれと言うから仕方なくやるのではなく、学校がやれと言うことでも「これは自分のためにやらねばならないことだ」と、自分を主役にして受け止めている

 学校の勉強を自分のための勉強にすり替えてしまっている。

 一種の換骨奪胎(かんこつだったい。元来の意味は文芸で先人の作風などを用いて独自の作品を作ること)です。

 

 テストや模試のやり直しが課された時、

 「やらされている派」はとにかく形だけ整えて提出すれば目的は達成されます。意義は二の次。

 一方「換骨奪胎派は」復習を自分のためにやります。

 かつて担当したある生徒は、模試の復習を直後とセンター直前の2回やっていたそうです。2回やれなどという指示は誰からも出ていなかったのに。

 

 やらされている派にとっては、費用=労力をケチることこそが正義。余計な労力はただのムダです。

 一方、換骨奪胎派にとっては、余計なことをすることこそが正義です。だって自分のための勉強なんですから。

 

 

 やらされている派にとって、自分は学校に支配される下僕か植民地のような存在です

 そんな卑屈な気持ちで、学業に前向きになれるはずはありません。

 

 一方、換骨奪胎派は、自分こそが主役であり、学校は自分より下に置いています

 受験を成功裡に終えた卒業生の書く合格体験記には、「学校を使え」「先生を使え」という表現がよく出て来ます。

 これ、実に象徴的です。

 勉強するのは、自分が主役。学校はこき使うべき道具に過ぎない。

 

 

 やらされている派と換骨奪胎派は、外見上はまったく同じです。

 一見、同じように登校して、同じように授業を受けています。

 でも、内面は全然違う。下僕と自由人くらい違う。植民地と独立国くらい違う。ガキと大人のほど違う。

 だからよく見ると、両者は手の動き、目の動きが違う。作るノートが違う。顔の表情が違う。

 何より、目の輝きが全然違う。

 

 

 ところで。

 やらされている派が、ある日突然、換骨奪胎に成功することがあります。

 そういうのは通常、「やる気」になったと表現するんでしょうね。

 いったい、何が彼ら彼女らを変えたんでしょうかねえ?

 

 私もいろんな事例を見てみたんですけど、今のところ、これといった答えがありません。

 ただ、ひとつ断言できそうなのは、人間は自ら変わるものであって、他人の力で変えるのはムリだということ。

 周囲の人間にできるのは、生徒が自らの力で変わることのきっかけを与えたり、役に立ちそうな環境を用意したりというくらいのこと。つまりはせいぜいお手伝いです。

 それが効果を発揮するかどうかは、全然不透明です。

 宿題なんかのノルマを増やすのは思ったほど効果がないと中段あたりに書きましたけど、増えたノルマが換骨奪胎スイッチを入れるきっかけになることもたまにはあります。100%のムダってわけでもないんですよ。

 

 

 まあでも、最終的には下僕や植民地みたいな根性からは卒業してもらわないと困ります。学生時代にできなくても、大人になったら独立国気質になって欲しい。

 だって、仕事に就いてから労力のコストダウン(つまり手抜き仕事)に精進された日にゃ、周りはたまったもんじゃないですからね。


 

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