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ssh478 sshは我が国の死刑と原発に反対です [社会]

<2011>

 

 2011年現在、sshは日本国内においての死刑に反対であることをここに表明いたします。

 はい。今回ははっきりと表明します。

 理由はただ一つ。

 現在の日本の司法に、極刑を判じる権限なんかとても持たせられないと判断するからです。

 

 2011年現在、sshは原子力発電に反対であることを明言いたします。

 はい。これもはっきりと表明します。sshは脱原発派です。

 理由はただ一つ。

 現在の日本の政治も経済もメディアも、原子力を安全に運用する能力がないからです。


 

 私自身は、消極的死刑反対論者です。


 死刑は、なくて済むならない方が良い。その程度の反対論者です。強硬な反対論者ではありません。


 世界の潮流は死刑廃止です。死刑に固執しているのはアジアと共産圏くらいで、あとは縮小か廃止の方向。


 とは言え、それだけで死刑を非難するわけにはいきません。グローバリズムだってある意味世界の潮流だったわけですが、あれは正義とはとても言えません。




 原発についても、絶対安全であるのなら、たぶん文句は言いません。現にフクイチの事故まではsshで原発に触れたことは皆無です。この点についての私は、しごくフツーの日本人でした。


 世界の潮流は再生可能エネルギー重視です。あのフランスですら原発重視の方向を見直す機運が高まっています。再生可能エネルギー(って変な名前ですが)は一大ビジネスチャンスと世界中で注目されています。


 もちろん、それだけで脱原発を支持するのは安直です。世界の潮流が正しくないってこともある。日本人がみんなで応援した小泉改革が大失政だったのと同じようなことが、世界規模で起こるということも(可能性は低いけれど)ないとは言えない。




 この記事での私が主張する意見のバックボーンは、これ。


1 人間は過ちを犯すものである。


2 御せないほど強大な力を、人間は持つべきでない。




 死刑の方から語るとですね、日本の司法って、ちょっとびっくりするくらいお粗末じゃないですか。


 村木厚子氏の冤罪事件では、証拠にインチキ加工(メディアは改ざんと言ってました)までしてましたよね。


 あれを機にさまざまな問題がいろいろなメディアで指摘されました。


 警察も検察も取り調べはメチャクチャであること。


 裁判官の人事は行政が握っており、国の責任を認めるような判決をするととたんに左遷されること。


 日本の裁判では有罪率が98%で、ほとんど共産圏レベルであること。


 「推定無罪」の原則がメディアにも国民にも全然理解されておらず、逮捕起訴された時点でワルモノ扱いだということ。


 裁判は「国民感情」なる情緒にかなり左右されるということ。


 実際に冤罪で死刑判決を受けた人間がいて、その冤罪を晴すのに人生をほとんどすべて使ってしまっていること。などなど。


 


 死刑は「極刑」と呼ばれます。つまり究極の刑。これ以上はないという意味です。


 それはそうです。受刑者の命を奪うのだから。いったん執行されれば、もう後戻りはできません。


 他の刑であれば、例えば終身刑のようなものであれば、万が一あとで冤罪がはっきりしたとき、あわてて釈放して謝ってということもできます。もちろんそんなことで失われた時間が戻るわけじゃないですが、生きてるだけまだマシです。


 死刑を執行してしまったら、あとで冤罪だとわかっても、もうどうしようもないのです。


 そういう点で、まさに死刑は「極刑」です。


 


 極刑を言い渡すのであれば、「万に一つの間違いもない」ことが必要です。


 まさか9999人の極悪人を殺すためには1人の無罪者を殺すのもやむを得ないなどとテロリストのようなことを言う人はおりますまい。そういう方はいますぐこのサイトからお引き取りを。


 


 そこで、バックボーンのその1。


 常に「万に一つの間違いもない」と自信を持って断言できる人を、私は信用しません。


 そんなこと、あり得ません。


 本当に世の中のいろいろなものをくぐり抜けて来ているのなら、間違いは「あるかもしれない」と思うのが当然です。そういう人が信頼される人です。


 


 もし日本の司法制度が非常にエクセレントな出来で、そこに働く人々はみな人格も知性も崇高であり、三権分立が見事に機能して司法・立法・行政がお互いに火花を散らし切磋琢磨しており、メディアも「吊るせ殺せ」とあおり立てたり「かわいそ~」と同情に訴えたりするようなレベルの低い仕事をしない、というような状況であれば、私も違った考えを持つでしょう。


 というか、純粋に「死刑制度は是か非か」と考えられるかも知れません。


 


 しかし、現実は違います。


 司法はあまりに独立性がなく、警察検察はあまりに危なっかしく、メディアはあまりにガキです。


 こんな状況下にあるのに、司法を扱う人たちに「極刑」を選択する権限なんか、とても与えられません。危険すぎます。


 だから、私は今の日本では、死刑には反対の立場を取るのです。


 


 


 私が反原発の立場を取るのも、同じような理由です。


 ただし、こちらはもっと明快。


 今の電力会社と政府と行政組織(官僚)と学者さんたちに、原子力発電所の安全運用なんか、絶対に任せられないからです。


 これについてはあれこれ説明する必要はないでしょう。管理はいい加減だし、情報は隠すし、学者はウソばっかつくし、メディアは共産圏並に情報を流さないし。


 こんなヤツらに原発なんて超強力施設を任せるなんざ、まさにキチガイに刃物の喩えのごとしでしょう。


 


 推進派の皆様方は、今もって原発の必要性をアピールして安全管理を強化して最稼働しようと思ってるようですけど、寝ボケるのもいい加減にしてもらいたいですな。


 そういうボケたアンタらだから、原発みたいな危ないものは任せられないのですよ。


 立派なセリフを言う前に、まずはフクイチを何とかしろって。


 それに、現に今もちょくちょく地震が起きてるでしょ。浜岡原発は震度7の揺れと高さ15mの津波に絶対に耐えられるのですかいな。


 


 sshにちょくちょく訪問してくださるきゅんぱちさんが、100mの津波とマグニチュード10の地震に耐えられるというのであれば安全だとおっしゃってました。


 これは極論じゃありません。「人間の想定には甘さがつきものだから、基準はうんと厳しく取ることにする」という意味だからです。実際に大甘の想定で大事故を起こしたのだから、言い訳はできない。


 厳しい基準は「人間はミスを犯す」ことへの対策です。


 


 


 私もフクイチの事故以来、これまでのボケーっとした認識を反省して、あわてて原子力関係のあれこれを勉強し直してますけど、しかしまあ、原子力政策ってまさに「ザ・日本政治」そのものですね。


 政治システムから経済システムから何から、日本というシステムが改まらない限り、原子力のような強大な力は絶対に持つことはできません。危険この上ない。


 少なくとも、今の政権や行政組織や電力会社には、もう絶対に持たせてはならない。それこそキチガイに刃物です。


 


 


 以上、強大な力は持つ者を選ぶという観点で死刑と原発への反対論を書きました。


 反論は歓迎しますが、死刑制度や原子力発電の有用性や必要性を並べ立てるようなコメントには私は取り合いませんので。記事内容がある程度理解できていれば、この記事の眼目が死刑制度や原子力そのものにはないことは分かるはずですので。


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