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ssh479 絶対音感とピカソと文章を書くこと(1) [三題噺]

<2011>

 

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 私が文章を書く時に、よく浮かぶイメージがある。それは、小学校入学早々の学童たちと先生の朝のやりとりである。

 先生は声を張り上げて学堂を一列に並ばせようとする。「ここが先頭で、ここから縦一列に並んでください」「さあ、早く並んで、並んで!」と声を張り上げる。「先頭はきみ、次はあなた、その後ろはあなた」というふうに、列を作ろうとして、行ったり来たりする。

 子どもたちは最初わらわらと校庭に散らばっている。お互いに牽制しあって、顔を見合わせたり、友だちの後ろに付きたがったりする。それでも、先生が通りすぎるまでは列らしきものができかけているが、先生が通りすぎて背中をみせると、せっかくの列らしきものが崩れてゆく。結局、列ができるのは、朝礼の校長先生のおでましの時刻が切迫してくるからだ。先生が焦るにつれて子どもたちも事態を察して、最終的には間に合うことになるのが普通である。

 「子ども」という比喩は、単語から文節さらにはセンテンス、パラグラフにまで共通な何かを指している。私たちの中に生まれる考えは最初はわらわらと散らばる子どものようなものだと私は思う。それも最初は、はっきりとした形をなさない、それこそ、古事記ではないが、「あぶらなす浮きくらげ」のようなものが、意識の底に感触される。それが、あれも言いたい、これも言いたい、これも言おう、あれもなくちゃというふうになってくる。「あれ」「これ」の中味はまだ未分化である。

 そのうちに、この無定形のプレ発想とでもいうべきものが言葉になってくる。

 

 これは、夢が、朝覚めた瞬間は夢特有の豊饒多面性を持っているのに、これを言葉にすると、枝葉がすっかり払われて、単純なストーリーに収斂するのと似た過程である。夢はとらまえがたいけれども、思考の原型の一種である。

 子どもは夢の恐るべき多重性に直面しているのかもしれない。夢を怖がっていた子どもが、夢を言葉で表現すると同時に格段に楽になり、余裕をもって夢に対するようになる。我が家の子どもたちもそうであった。「夢」と言ったが、目覚めていた時に覚えている夢は前夜の夢作業(夢志向)が消化できなかった残滓である。夢のわかりにくさの半分はそのためだと私は思う。

 また、自閉症の世界はいわば絶対音感の世界であるらしい。絶対音感の人の苦しみは最相葉月の『絶対音感』(小学館、1988年)にあるが、それが音だけでなく、すべての感覚にわたってそうらしい。テンプル・グランディンという、自身が自閉症である動物学者の『動物感覚』(中尾ゆかり訳、日本放送出版協会、2006年)を読むと、この「リアル」な世界がいかに大変かがわかる。言語は、その世界の圧力を減圧するために生まれたのではないかと彼女がいうのもうなずけるような気持ちになる。

 言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係と言う粗い網をかぶせることである。世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界に対して優位に立てるということだ。

 

 しかし何事もよいことずくめではない。彼女によると言語のない世界には恐怖はあるが葛藤はないという。言語は葛藤を生む。その解釈がさらに葛藤を生み出す。

 さらに、言語の支配する世界はすべてにわたって相対音感の世界ということになる。相対性、文脈依存性は成人の記憶において明らかである。誰しも、生きてゆくにつれて、過去の事件の比重、意義、さらには内容、ストーリーさえ(たいていは自分に都合よく)変わる。しかし、人間はどこか生の現実(「即事」「もの自体」「現実界」など)から原理的に隔てられている虚無感を持つようになる。

 20世紀の偉大なドイツ語詩人リルケの「ドゥイノの悲歌」の主題の少なくとも一つは、この離隔感であるかと私は思う。わかりやすい第八の悲歌の冒頭を引いてみよう。

 

   あらゆる眼で生きものは見ている

   開かれた世界を。ただ、私たちの眼だけが

   まるで逆さまのようだ そしてまったく生きもののまわりに

   彼等の自由な外出を囲んで 罠として置かれている

   外にあるものを 私たちはただ動物の顔から

   知るだけだ なぜなら既に幼な児を

   私たちは振り向かせ 無理に背後に向って

   物の姿を見させているからだ

 

 晩年のリルケはキリスト教から距離を置くようになったらしい。一神教とは神の数が一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。      (中井久夫「日本語を組み立てる」 金沢大学の小論文入試問題より)◆◆


 

 まずは受験生のみなさん。このくらいの文章は読まなきゃならないということを認識してくださいね。

 結構勘違いしてる人が多いので断っておきますけど、受験問題のレベルと大学の偏差値レベルはあんまり関係ありません。地方の国立大学の問題は昔から割と凝ったもの=難しいものが出ます。ナメてると足下すくわれますよ。


 さて。

 入試の小論文に使われる課題文には、読み応えのあるものが多いです。

 ま、当然といえば当然。何せ大学の先生がわざわざ受験生に「これで行こう!」と選んだ文章なんですから。こういうのを読んで理解して欲しいよなあ、と思っているはずです。読み応えがあってしかるべし。

 にしても、これは本当にグッと来ましたねえ。


 絶対音感というのは、どんな音も音階で認識できるという例のあの能力のことですけど、確かにこうして見ると「すご~い!」と感心して終れるような気楽なシロモノじゃないようです。

 何しろ、本当の絶対音感の持ち主は、肉声でも物音でも何でも、すべての音が「音階」として認識されてしまう。

 こりゃ、相当に苦しいでしょう。

 

 ssh184に書いたように、私は中耳炎に大変になりやすくて、しかも中耳炎になるとあらゆる音が低く聞こえるという持病があります。

 この症状が出ている間は、本当に不快です。

 人の声も、学校のチャイムも、電話やら何やらの電子音も、何よりも音楽までもが、すべて慣れ親しんだ音程よりもちょっと低く聞こえるのです。感覚的に言うと四半音から半音ほど。

 それがどうした?というアナタのご意見はごもっとも。音が聞こえないわけではないです。

 でもね。実際にそうなってみれば、これがどれほど気持ち悪いものかわかりますよ。ったってムリか。

 年がら年中なんかどうか音楽を聞いている私が、中耳炎になっている間は音楽を一切聞かないのですよ。気持ち悪くって。

 

 という話は瑣末なこととして。

 もし仮に、私の目に、すべての映像がデジタルカメラよろしく、極めて正確にドットと色としてしか認識されないとしたら、私は自分の目を潰すかもしれません。そんな世界は苦悩でしかありません。

 音にしても映像にしても、「何となく」受け止められるというのは、実に気楽なことです。


 そもそもこの世界は、人間のためにあるわけじゃありません。40億年以上の歴史をもつこの地球で、人間はたった30万年かそこらしか存在していない新参者です。

 地球からすれば(いや、宇宙からすれば)、人間なんかout of 眼中なのです。

 

 ところが困ったことに、人間はやたらと知能が発達しています。地球で一番頭でっかちな生き物です。

 人間は、自分の知性で消化できないものを極端に恐れています。数学が苦手な生徒が数学を恐れるように。

 世界の絶対的な姿というのは、人間の知性の手には負えません。

 人間は、かろうじて一部分を理解できるだけ。その一部分を理解する方法論が「科学」です。

 科学は数式や論理の世界だと思っている人が多いでしょうけど、数式も論理も広義の「言語」です。ちょうどコンピューターの論理式を「言語」と呼ぶのと同じように。

 

 科学という言語によって、人間はようやく、世界を相対化=対象化できる。

 それによって、何とか世界と折り合いをつけることができる。

 科学は偉大です。だって、科学がなかったら、怖くて生きていけないもの。

 

 いや、ちょっと話が大きくなっちゃった。もっと簡単なお話として、

 例えば「北」という漢字ですけど、明朝体やゴシック体などの活字では左側の部分のタテ棒が、上から下まで突き抜けてますよね。

 でも、こんな字体は、肉筆では誰も書かないでしょう。

 肉筆だと、タテ棒は下のヨコ棒のところで止まっているはず。活字だと教科書体はそうなっている。

 なのに。

 誰も疑義を挟まない。活字も肉筆も同じ字として扱っている。

 

 当たり前じゃん、とか言わないでくださいよ。

 出るか出ないか、長いか短いか、そんな些細な違いで、私達は字を識別しているじゃないですか。

 「上」と「土」の違いや、「未」と「末」の違いのように。

 いろいろな字体で書かれていても、同じ「北」という字だと認識できるのは、私達の認識が相対化されているおかげです。

 で、もちろん、その相対化は、訓練=教育のおかげです。そうでないと生きていけませんから。


 もし、私達が使っている字が、棒やハネやトメやその他もろもろの細かな差違によって認識できなくなったら、コミュニケーションは壊れてしまいます。そんな世界で、私達は生きていけません。

 

 絶対化された世界は恐怖である。それは例えば、ほんのわずかな字体の違いすら認識してもらえない世界ということでしょう。

 それは裏返すと、私達が普段どっぷり浸かっている世界は、細かい差異を無視したおおざっぱな世界であるということでもあります。

 だから安心して生きていける。だからコミュニケーションが成立する。

 

 でも、それゆえ、自分の感じたことを、100%他者に伝えることはできない。ある程度までは必ず伝えられるけれど、それ以上は全然伝えられない。

 「ああ、◯◯なのね。」「いや、そういうんじゃないんだけど・・・。」 

 そんなやりとりがしょっちゅう繰り返されるのも、私達の認識が相対化された「おおざっぱ」なものであるからです。


 もし、自分が本当に伝えたいことが、日常の、常識的で良識的な、相対化された認識ではとうてい伝えきれないとしたら。

 一般の人はそういうコミュニケーションはあきらめます。あきらめて「まあ他人にはわからないんだろうな」と思うか、さもなくば「オレorアタシって細かいことにこだわりすぎてるのかな」と自分をいさめるか。


 でも、アートの世界は、そういう表現こそ重要です。

 というわけで、次回、話はピカソに飛びます。  


 

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