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ssh485 絶対音感とピカソと文章を書くこと(3) [三題噺]

<2011>

 

 ssh479ssh480で紹介した、中井久夫の書いた課題文。これを初めて読んだのは2年前。金沢大の受験準備をしていた生徒の個別指導をしたときです。

 さて、この課題文には続きがあります。(太字は私によります)

 

◆◆しかし、私たちは、言語以前の浮動的で多重的なマトリックス(母胎)状態にとどまるのも苦しい。私たちは、水中でもがく溺れかけた人のように急速に言語世界に向かって浮上しようとしないではおれない。こうして前言語的なマトリックスは言語の衣を着せられてゆく。

 そうなるとマトリックスは、言葉に変換されて、イメージは漢字や知っている同義語、類義語に代わる。外国語が裏打ちされることもある。言葉の並ぶ一種の「パレット」となってゆく。この「パレット」は徐々に言語優位になってゆく。まだイメージがまとわりついているかもしれないが、これも絵画的・模式的にされてゆく。絵画や写真や記憶像は素のイメージではない。それらは、それを減圧し、手なずける人間的手段の一つである

 ここで校庭の情景に一気に戻ると、私には学童たちがみなひらひらする布のようなものを背中につけているように見える。布は名詞の場合には格助詞である。そして、格助詞のついた名詞が組み合わさろうとする。仲良し二人組みという感じである。それがお互いに呼応し合って、もっと大きなグループを作ってゆく。文節、副文章、センテンスだ。その過程で淘汰されて消えるものもある。いろいろな段階で消えてゆく。センテンスも消えたり融合したりする。何とか列らしくなったところで筆を下す。これはセンテンスを書こうとすることである。パレット段階で文字を書いても、それはメモである。この二つは大いに違う。筆を下すことが大きな試練なのは一列に並べなければならないからである。

 同時に二つのことを言えないというのは、大きな限界でもあり、精神の安全保障でもある。世界が同時に無数の言葉で叫び出したら私たちは錯乱するしかない。

 言語の直線性すなわち一次元性は雲のような発想に対して強い規制をかける。言語以前の強烈で名前を持たない感覚を因果律とカテゴリーとによって整理してくれるのが言語表現である。妄想も言語表現であり、その意味では混沌に対する救いではある。◆◆

 

 実は、指導中だというのに、私はこの太字部分を読んで、いきなり大声で「あ~~~~~!」と叫んでしまったのです。

 私が叫んだ理由。それは、ピカソの絵についての長年の疑問が、ほんのちょっとだけ解けたような気がしたからです。


 

 私は美術の素養が全然ない人間です。絵は昔からヘタクソですし、中学でも美術は苦手科目でした。5段階で3をもらうのが精一杯。

 絵画にいささか興味を持つようになったのは大学に入ってから。

 友人にアドバイスされて、アートを理解しようとせず、単純に好き嫌いだけで見るようにしたんです。

 で、単純に好き嫌いだけで絵を見るようになったら、ちょっと面白くなりました。

 これは音楽もデザインも然り。ヘンにわかったようなことを言えるようにならなくても、気に入ったとかつまらんとか、そういう気持ちで見た方が楽しめるんです。

 

 

 ご存知の通り、ピカソも初期は普通に「上手な」絵を描いていました。それが後になって、ああいうシッチャカメッチャカな絵になった。

 あれを、あらかじめ「偉大な芸術」だぞと言われてから見ると、実に難解です。これのどこか偉大なんだか、少なくとも中学生には全然わからん。

 でも、わかろうとか評価しようとか、偉大さを理解しようとか思わずに、ただ単純に好き嫌いだけで見てみると、確かにキュービズム以降のピカソの絵は、面白いんですよ。安く買えるもんなら買って家に飾ればウケそうな感じで。

 

 それにしても、ピカソの描く人物はすごいですね。顔は正面と横顔が同居しているし、身体は着衣と裸体が同居している。

 中学の美術の先生は「ピカソには、こういうふうに人間が見えていたのだ」と解説してくれました。

 でもねえ。だとしたら、ピカソってド近眼かアホウじゃないっすか?145歳のガキにはそうとしか思えませんでした。

 

 

 当たり前の話ですけど、絵というのは平面に描かれてます。つまり二次元の表現。

 一方、私たちは三次元世界に生きています。風景も人物も静物もオブジェも、全部三次元座標の中の物体です。

 絵画というのは、三次元を二次元で表現する技法です。

 絵画は図面ではありません。三面図のように、複数の絵を組み合わせるわけにはいかない。

 そういう点で、絵画というのは、生まれながらに呪われた表現技法だと言えます。最初から、ひと次元が不足している。絵画は、表現技法としては、実はとても不自由なものです。

 

 ヤボを承知で言うと、風景画はその角度から見た風景だけが描かれている。少しでも角度がズレればもう風景は違う。ましてやその風景の裏側や、建物の中の様子は描けない。

 人物もしかり。横顔を描いたら、正面は描けない。肖像画を描いたら、全身像は描けない。裸婦像のモデルがオシャレな服でキメたらどうなるかは、見る人が想像するしかない。


 でもね。

 絵画の対象となるものは、風景でもオブジェでも何でも、すごくいろんな表情やいろんな側面を持っています。

 人物ともなれば、もう途方も無い側面を持っている。

 優しいかと思えば残酷、美しい笑顔と醜い嫉妬の表情、裸体の美といろんな衣服を身にまとった時の美、エトセトラエトセトラ・・・。どれも間違いなく「その人」です。そういうあらゆるものをひっくるめて、私たちは他人というものを受け止めている。

 でも、絵には一場面しか描けない。これは、すごく不自由で、まどろっこしいことです。

 

 私が生徒の個別指導中であったにもかかわらず、「あ~~~~~~!」と叫んでしまったのは、ピカソは、そういう絵画の技法の限界がイヤになって、自分の受け止めている要素をあれこれ1枚の絵にぶち込んでみたのじゃないか?と思ったからです。

 

 この人には横顔も正面もある。着衣の時もあるし裸体のときもある。その他あれこれの側面の、どれもこれも間違いなくその人。自分にはそういうあれこれが受け止められているのに、絵はそれらのわずか一側面しか描かれない。そんなのその人じゃない。とピカソが思ったのかどうかは知りませんが、あの絵にはモデルたる人物のいろいろな面があまり整理されずにぶち込まれている。

 

 ピカソの絵を見る時、私たちは「よくわからない」と言います。で、あれらの絵は、ちょっと怖い。

 もしかしたら、その「わからなさ」は、実は私たちの脳内のナマの状態で、それゆえ「怖い」んじゃないでしょうか?

 

 言語化された世界に住んでいるとはいえ、私たちは、いろいろなものを、あまり整理できない状態のまま受け止めている部分があります。

 印象とか、好き嫌いとか、イメージとか、なんとなくとか、そういう言葉でしか説明できないもの。それはしっかりと言語化されていない、素のイメージでしょう。

 素のイメージは怖いです。得体が知れない。まるで絶対音感の世界のように恐怖です。

 私たちが感じる「怖さ」の一因は、そこにあるのかもしれません。


 と、アートのド素人たる私は思ったのですよ。


 

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