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ssh486 絶対音感とピカソと文章を書くこと(4) [三題噺]

<2011>

 

 ssh479ssh480ssh485と続いた三題噺の完結編です。

 

 ssh479, 480は、この世界のありのままの姿に人間は耐えきれないということを中心に書いたつもりです。

 世界は極めて豊饒で多面的なものであり、それは人間の理性ではとても消化しきれないレベルである。それはある意味恐ろしさを感じさせるほどであり、生身の人間はそのことにまず耐えられない。言語はそういう「世界」の豊饒さや多面性を去勢して弱体化させ、私たち人間の理性で受け止められるように手なずける武器である。しかしそれゆえ、言語化されたものはナマの世界の持つ豊かさや多面性を伝えることはできず、また理性的にまとめようとしているが故に葛藤という新たな問題も生む。

 ssh485は、ナマの世界の迫力を減圧して手なずける武器は言語だけでなく、絵画や写真や映像も同じであるという指摘から、ピカソはナマの世界の豊饒さや多面性を減圧せずに伝えようとああいうメチャクチャな技法を用いたのではないか、というお話でした。


 さて、課題文の終盤で、筆者はこう述べています。

◆◆筆を下ろすことが大きな試練なのは一列に並べなければならないからである。◆◆

 

 この地上には数千の言語があると言われています。正確な数は言語の定義や数え方によって異なるので諸説ありますが、50007000くらいというのが定説。

 しかし、そのどれ一つ取っても、2列とか3列で並べられる言語というのは、たぶんないはずです。

 話し言葉のみならず、書き言葉でも、言語は一列に並んでいなければならない。仮に複数の文章が同じ紙やディスプレイに並んでいたとしても、それら一つ一つはやはり一列に並べられているし、読み手は同時に2つ以上の文を受け止めることはできない。

 

 ところが。

 人間は、言語と全く同じように、ものごとを受け止めたり感じたり考えたりしているわけではありません。

 

 小学校低学年の書く作文や日記は、いたって単調なものです。

 「きょうは、◯◯へおかあさんといっしょにいって、××をかって、▽▽をたべて・・・」みたいな感じ。

 彼ら彼女らは、ものごとをただ起きた順番に書くだけです。

 こういう文章を書くのは、実に楽チンです。だって、書くべきものごとが一列にならんでいるのだから。

 彼ら彼女らが困るのは、一列に並べられるような出来事がないとき。

 こういうとき「書くことがない」と泣き言を言うんですよね。

 

 もちろん、書くことがないはずはないんです。生きていれば、文章のネタはいくらでもある。

 でも、小さい子どもには、一列に並んでくれている出来事を、そのまま一列に文章にするというのが精一杯なんです。

 小利口な子どもでも、せいぜいその出来事のスキマに「たのしかったです」とか「すてきでした」とか、ちょっと大人の喜びそうな形容詞を入れるくらい。

 

 

 どんな子どもだって、ものは感じているし、考えています。

 ただ、それを文章にする力はない。正確には、文章にする技能を訓練されていない。

 

 思考も感覚も、頭の中では相当に混沌としています。

 中井久夫はそれを「小学校入学早々の小学生」と表現しました。てんでバラバラ、全然整列していない。

 それを狙い通りに整列させることこそが、文章を書くことです。

 

 デジタル家電でたとえると、私たちの脳内の思考や感覚のデータは、CDDVDのような形では収められていない。それはフラッシュメモリーみたいに、ドカンとまとめて脳内にある。

 脳内データを外に出す=言語にするには、フラッシュメモリーのデータの適切なソフトで処理して、きちんと相手に理解できる順番にして出さないといけない。


 自分の思っていることを言葉にするのは、ものすごい重労働なんです。

 

 私が小学生だった1970年代の教育現場は、できるだけ生徒の持っているものをそのまま伸ばす方がいいという方向性が(少なくとも私の地元では)一般的でした。だから教員が過度に児童生徒に方向性を示すことは警戒されていました。すると、作文でも図画でも、「思ったこと、感じたことを素直に表現しなさい」という指示がよく出てくる。

 でもねえ。10歳かそこらのガキが、自分の思ったこと感じたことをすんなり言語や絵画にできるワケないじゃないですか。基本的な技能は、教えてもらわなきゃわかりません。

 

 

 さて。自らの思考や感覚を表現することの悩ましさは、表現したいことが増えれば増えるほど、それを表現することが困難になるということ。

 小さい子どもの作文よろしく、今日一日何が起きたかを時間を追って伝えることが目的なら、文章を書くことなど文字通り子どもダマシです。私たちが文章を書くのがああも困難なのは、何度書いても「自分はこれが書きたかったんだ!」と気に入るようなモノが、なかなか書けないからです。

 そして、その大きな理由は、その人の思考や感覚がけっこう複雑だからです。

 言いたいこと、伝えたいことが大きくなれば成るほど、それを言葉にするのが難しくなる。

 「小さい頃は作文は得意だったんだけどさあ・・・」とため息をつく人は、あるいは、大人の階段を昇るにつれて思考と感覚がリッチになって、文章化する技能がついていけなくなったのかもしれません。


 英会話を習っている人たちが、同じようなことをよく言います。最初のうちは割とスムーズだったのに、何年かやっているとかえってうまく話せなくなってくる。なぜ?

 多くの場合、それは相手に伝えたいことが増えたからです。

 旅先で電車やバスに乗るとか、レストランで注文するとか、買い物で値切るとか、そんなお決まりの状況下での会話なんか簡単です。定型句を覚えておけば済む。

 ところが、ある程度会話ができるようになって、外国人といささか仲良くなってくると、少し突っ込んだ話もしたくなってくる。そうなると、もう途端に難しくなるんです。

 英会話に学校の勉強なんか何の役にも立たなかったと豪語する人がいますけど、そういう人はよほどシンプルな話題だけ話しているんでしょうね。


 思っていることを言葉にするのは、すごく難しいんですよ。

 文章を書くには、技能が必要です。技能を身につけるには訓練が必要です。

 

 ただし。技能訓練をさせれば、それで文章力が上がるなどと単純に考えてもらっては困ります。

 どんなに語学技能を鍛えても、伝えたいことがロクになければ、大したことは言えません。というか、その前に、頑張って訓練しようとは思わない。

 海外旅行で買い物とメシを♡しか目的にしてないオッサンやネエチャンに、文化だの歴史だの価値観だのを語るための表現を教えたところでマジメに勉強するはずもありません。Hello.Thank you.How much?I love you.くらい知ってりゃ十分。

 

 マジメに勉強しようというモチベーションは、その人の内側のエネルギーにこそあります。

 校庭を好き勝手に走り回る多数の児童のごとく、豊饒で多面的な思考や感覚がその人の中にある。それをどうにか言葉で表現したい。しかし走り回る児童があまりに多くて振る舞いも自由気ままなので、なかなか一列に並ばせることができない。どうやれば整列させることができ、他人に自分の脳内に展開した世界を一部でも伝えることができるのか。書いても書いても、「これだ!」というものが書けない。

 そのイライラや無力感や「なにくそ!」という負けん気こそが、技能を学ぼうというモチベーションです。

 

 

 11月は推薦・AO入試シーズンです。今、生まれて初めて、必死で文章を書いているという受験生も多いでしょう。そして、イライラや無力感に苦しみながら「なにくそ!」と頑張っているという受験生もきっとたくさんいるはずです。

 でも、その苦しみは、無力ゆえではなく、自分の考えていること・感じていることがそれだけ豊かで多面的であるからなのかもしれません。

 負けないことです。

 

 

 絶対音感とピカソと文章を書くことの三題噺は、これにて終了です。


 

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