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ssh512 実践報告はレシピじゃない〜教育ブログの読み方(2) [マスコミュニケーション論]

<2012>

 

 私の嫁サンは、新しい料理に挑戦するとき、レシピに実に忠実です。材料も行程もレシピ通り。材料がなければ買いそろえるし、具材や調味料はきちんと計量します。

 一方、私は昔からそーゆーのに無頓着。具材が高けりゃ、安い他の物で代用しますし、計量もたいてい目分量です。だから出来上がりも常に「もどき」です。

 おおざっぱな0型人間を自認する嫁サンの方が、レシピに対しては生真面目と言うか忠実です。

 

 

 さて、教育ブログの読み方のお話。

 ssh511で書いたように、現場の教員や講師によるブログの多くは実践報告的なものです。

 で、それらはたいてい、キレイゴト。より正確には、ネットで公開しても誰も傷つけないようなもの。すごくうまくいった例。ほほえましい事例。あまり重大じゃないような話。日常の些細なことに感激したというようなお話、などなど。

 わがsshでも、ときどき生徒の実話を紹介していますけど、悲劇的な話や、私が思い出したくもないような失敗談は、一切アップしたことがありません。

 

 なにせネットの世界は、接続環境と機材されあれば誰でもアクセスできます。事情のわかっている人であれば、shiraがどこの何者で、記事に出てくる生徒がどこの誰なのか、すぐにわかってしまいます。

 

 私が教員になりたての1980年代半ばは、教育報道の論調が変わり始めた頃でした。それまで「詰め込み教育批判」「管理教育批判」が主流だった各メディアが、少しずつ「学力低下批判」「甘やかし批判」にシフトしていました。

 転換期ゆえ、メディアの論調はイソップ物語のコウモリのように不安定でした。ある学校で生活指導の行き過ぎによるトラブルが発生すれば「管理が教育か」と批判され、別の学校で暴力事件が起きれば「学校は安全管理を怠った」と批判されました。

 現場の人間としては腹立たしいこと至極でした。しかし、反論はできませんでした。

 負けを認めたのではありません。

 学校側の正当性を主張しようとすれば、該当の生徒(場合によっては保護者)の問題点を明らかにせざるを得ない。

 学校はそれを嫌ったのです。

 

 失敗例を伴う実践報告は、現場の人間だけを限定にした会(例えば教育研究集会=教研など)なんかじゃないと、なかなか聞けません。

 だから、ブログでそれを求めてはいけません。


 

 実践報告記事には、キレイゴトばっかりという特徴の他に、もう一つの特徴があります。

 それは、イマイチ一般性に欠けるということ。

 

 まあでも、これも仕方がないんです。

 一言で教育とか学校とか教師とか言いますけど、環境から何から千差万別です。

 小学校と中学校と高校と大学じゃ、仕事の内容が全然違います。同じ高校でも、都市部とイナカじゃ全然違うし、同じ地区でも公立と私立はまた違うし、同じ地区の同じ公立でも歴史や成り立ちや生徒のレベルによってこれまた全然違う。小中学校もしかり。

 現場の教員なれば、人事異動のたびに「学校が違うとずいぶんと違うもんだなあ」と思っているはずです。異動の範囲内ですら違うのだから、他の都道府県ではもう全然違う。

 何かとモメる卒業式の様子にしても、地区によってずいぶんと違います。

 

 いや、同じ学校においてすら、学年が違うと様子が全然違うということもある。まったく同じ活動が、あるクラスではバッチリで、隣のクラスではまるで空振りということもある

 

 他人がやってうまくいった実践例が自分にとって有効とは限りません。

 

 

 他人の実践例は、あくまで参考例として受け取るべきものです。

 教育実践はレシピじゃありません。同じようにやれば同じようなおいしい料理ができるわけじゃない。

 ましてや、他人の実践例にあれこれイチャモンつけても、せんないことです。「いつもそんなにうまく行くわけがない」と文句を言ったところで、お互いに得るものはありません。とにかくキレイゴト中心で一般性がないのだから、しゃーないです。

 

 実践例は、「お、この部分は使えるかも知れないな」と、つまみ食いをするくらいの気楽さで接するのが上手な読み方でしょう。


 

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