ssh513 文は人なり、とも限らない〜教育ブログの読み方(3) [マスコミュニケーション論]
<2012>
世の中には、ものすごく話の上手な人がいます。
例えば、聴いてて目はうるうる、今すぐ言われた通りに実行してみたくなっちゃうというような講演の名人。
それほどでなくても、身の周りには、わりと話の上手な人はいます。
仕事の話、家族の話、人付き合いの話、人生訓その他いろいろ、感心させてくれるような話をする人はけっこういます。
私も駆け出しのころ、ベテラン教員のそういう話を聞いて「わあ、すごいなあ。オレもこういう先生になれるかなあ。」と感じ入ったことがあります。何度もあります。
ところが。
そういう先輩教員が、必ずしも本当に敬愛すべき方というわけでもありませんでした。
言っちゃ悪いが、実は口だけというベテランも。
で、逆もいました。ひどく口ベタで、ほとんど有効なアドバイスはもらえないのに、実践は素晴らしいという先生。
話と実践は、無関係でもないけど、イコールでもないものです。
私は評論文を読むのが好きです。文芸評論、政治評論、芸術評論、自動車評論、その他いろいろ読みます。
ところが。文芸評論は読むけれど、文芸そのものにはほぼ興味がありません。というか、はっきり言って小説って全然読まない。
なのに、小説を取り上げた評論を読むのは好きなんです。なぜか。
評論そのものが面白いからです。
評論と、評論される対象は、独立しているんです。
私はクルマ好きなので自動車評論もよく読みます。自動車雑誌を読んでいると「クルマ買うの?」とよく聞かれますけど、そんなつもりで読んでるわけじゃないです。しかしここでも読み物として楽しんでいるだけです。
評論とその対象の関係を、ある個人の話すこととやること、つまり話と実践に置き換えてみることはできないでしょうか。
話というのは、それそのものが独立した一種のエンターテインメントのようなもの。
話の面白さは、もちろんネタによるところも大きいけれど、それだけではない。話術や話芸や、繰り返し語る中で練られた成果(努力の成果?)など、技術による部分も大きい。面白い話のネタが、話の面白さほどでもないということもある。
いい話をする人は、話が上手なのであって、話のネタとなっている実践そのものが「いい」とは限らない。必ずしもその人の実践の優秀さを担保しない。
同様なことが、文章を書くことにも言えるはずです。
メディアに出る記事でも、教育行政に提出するレポートでも、生徒保護者向けの通信でも、そしてブログでも、そこに示される文章の評価は、あくまでその文章そのものの評価。
最高の実践報告レポートを提出した教員が、最高の実践をしているとは言い切れない。
文は人なり、という言い方があります。
私は、これは文を書く人間への戒めと理解しています。
文は書き手の人格まで判断する材料にされてしまう怖いものである、だから文を書く者はゆめゆめ注意せよ。
文は人なり、だからいい加減な気持ちでモノを書くな、と。
ただ。格言ってもののマズいのは、言葉が一人歩きすることです。
文は人なり。いい文を書くのはいい人である。
違うでしょ。文だけで人は判断できませんよ。
文は文なり、人は人なり。
教育ブログにも、素晴らしい文章のものと、バカじゃねーのと怒りたくなるようなものがあります。
でも。
ブログが素晴らしいからといって、実践が素晴らしいとは限らない。
バカみたいなブログの書き手が、バカみたいな実践をしているとも限らない。
尊敬できるような思想の持ち主であっても、現場で全然ダメな先生もいる。
偏見だらけで暴力的な人間であっても、現場で重要な役割を果たしている先生もいる。
生徒にとって、先生の思想とか価値観とかいうのは、実はどうでもいいものです。重要なのはアウトプット。
誰よりも差別を嫌う先生であっても、生徒の差別行為に無力であれば無価値です。逆に、差別的な価値観を持っている先生でも、からかいやいじめに反応して怒ってくれる先生は生徒にとって価値があります。
ブログは、しょせんブログです。
ブログの良し悪しは、ブログの良し悪しとしてだけ評価すべきものでしょう。
話は話、実践は実践です。