ssh561 作文上手の子が小論文で苦労する [小論文]
<2012>
小中学校で作文が得意だった子の中に、小論文でひどく苦労するケースがあります。
それも、かなり頻繁に。
ちょっと考えると、不思議な感じですよね。
テーマはずいぶん違うにしても、原稿用紙に文章を書くことに違いはないのだから、作文がまったく不得手だった子よりは、作文の得意だった子の方が上達も早そうな気がします。
ところが実際には、作文上手の小論下手という生徒は、ものすごい苦労をします。作文からして下手だった生徒よりも上達が遅いくらいです。
「vocabow小論術」の吉岡友治先生は、小学生時代に作文が大の苦手で、作文の宿題は全部母親がゴーストライターをやってくれたのだそうです。なのに今は法科大学院や司法試験の論文をも指導する大家です。
吉岡先生とは全然レベルが違いますが、私も小中学校と作文は大嫌いでした。デキも悪くて、褒められたことはほとんどありません。私がものを書くことでいささか評価してもらえるようになったのは、高校で小論文を書いた時からです。
作文上手は、なぜ小論で苦労しがちなのか?
私の推察は、作文上手は無意識に「作文で評価を得るコツ」をつかんで、それを骨肉化してしまったからではないか?というものです。
実際に一生懸命指導している小中学校の先生方には身もフタもない話で申し訳ないのですけで、小中学校の作文で高い評価を受けるコツというかツボというのは、割と明確です。
まず技術面では、学校の先生の教えたことをきちんと理解しているということをアピールすること。具体的には、
- 字がきれい。
- 国語で習った漢字が正しく使われている。
- 原稿用紙の使い方が正しい。
- 国語で習った語句・表現が積極的に用いられている。
- 作文指導で習ったテクニック(一文はあまり長く書かないとか)を実践している。
その上で、特に強いアピールを持っているのが、次の2点。
- 表現がちょっと工夫されていること。
- 成長物語であること。
この2つについては、ちょっと解説が必要です。
1つ目の表現ですが、これは「子どもらしい純粋な感じ」か、「子どもらしからぬ成熟した感じ」が好まれます。
別段イヤらしい話じゃありません。
そもそも大人ってのは、子どもらしい無邪気さや、子どもなのにしっかりした感じというのが大好きなのです。それが普通です。
LHR65 おばちゃん、ここに住んでるの? にクスッと笑った方は、子どもらしい純粋な感じが好きな人です。(もちろん記事化した私も含まれます。)
一方、昨今ブームの「天才」子役(芦田某とか鈴木某とかね)に魅力を感じる人は、子どもらしからぬ成熟した感じが好きな人です。
流れる雲を見た子どもが、「ふたつの雲が手をつないで行きました」とか書けば、子どもらしい純粋な感じの表現。「雲を見ているうちにまるで自分の方が動いているような感じがしました。でも雲から見れば私の方が動いているのでしょう」とか書けば、子どもらしからぬ成熟した表現ということでしょう。
2つ目の成長物語。
これはほとんどキラーチューンです。
這えば立て、立てば歩けの親心。親にとって子どもの成長は何よりの楽しみです。
親でなくても、大人にとって、子どもが成長することは嬉しく微笑ましいものです。
それは、ほんの些細な成長でもいい。
だから、次のような作文は、メチャクチャ受けがいいのです。
例その1・・・遠足か社会見学でどこかへ行った。行く前はあまり興味関心がなかったが、そこでいろんな物を見て、いろんな話しを聞いて、新たな発見や興味関心が湧いた。これからは◯◯をするようにしたい。
例その2・・・読書感想文のためにある本を読んだ。読む前は××だったけど、読んでいくうちに新たな発見や興味関心が湧いて、以下同文。
例その3・・・学校で△△さんの講演を聞いた。聞く前はあまり興味関心がなかったが、以下同文。
以上をまとめると、小中学校の作文で高い評価を得るのは、
字がきれいで学校で習ったことを遵守していて表現が工夫された成長物語
ということになります。
もちろん、小中学校の先生は、こんな露骨なことは言いません。
きれいな字にしても正しい原稿用紙の使い方にしても表現の工夫にしても成長を感じることにしても、どれも大マジメな教育目標です。
しかし、中には、こういう「ツボ」を、ほとんど直感的に理解してしまう子どもがいます。大人が自分に何を期待してるのかをすぐに見抜いてしまう、鋭い洞察力を持った子ども。
こういう子どもは、かなりたくさんいます。特に頭のいい子は顕著。
そのもっとも成功している例が、くだんの天才子役たちでしょう。彼ら彼女らは、周囲が自分に何を求めているのかを熟知している。まあ、ドラマやバラエティの脚本をあっさり暗記するのだから、頭はいいのでしょう。器用なのは当然です。たぶん作文を書かせたら相当泣かせるものを書いてみせるはずです。何せ大人の求めているものが分かっているのですから。
私が思うに、作文上手の小論下手の生徒というのは、字がきれいで学校で習ったことを遵守していて表現が工夫された成長物語こそが先生に褒められる正解であると身にしみてしまっていて、それゆえに小論文のフォーマットになかなか切り替えられないのじゃないか。
小論文に、気の聞いた表現は不要です。ましてや成長物語などまったく不要。もちろん字はきれいで原稿用紙の使い方は正しくなきゃいけませんが、それはせいぜい減点対象。
意見と論拠から成る小論文では、もっとも評価されるのは論拠です。
一方、作文に論拠はいりません。意見もいらない。感想だけでいい。そもそも小中学校では意見文はほとんど書きません。せいぜいプレゼンのhow toくらいしかやらない。
全然違うんですよ。作文と小論は。
ところが、何しろ作文上手は成長物語で数多の成功を勝ち取ってきています。自分は作文はうまいというプライドがあるはずです。それが高校でいきなりまったく評価されず、全然違うものを書けと言われる。
そう簡単には切り替えられないでしょう。今までの私は何だったんだと落ち込むかも知れません。
もし彼ら彼女らが「確信犯」であれば、すなわち点数稼ぎのためにホンネを偽って上手な作文を狙って書いていたとしたら、そこから脱却させるのは割と簡単です。一喝すればいい。
ところが、彼女たちの多くは「こうするのがいい作文だ」と、何の悪気もなく学び取ってきている。その価値観が骨肉化してしまっている。つまり正義。
正義をぶち壊してやるというのは、大変ですよ。
ま、それでもやりますよ。そうしなけりゃ、次の段階に進めないのですから。
ひとつ切ないのは、生徒を泣かせちゃうことが時にあることです。
何せ作文上手には女子が多いので。