ssh597 大きくため息をついてから、本当の努力が始まる [教科学習]
<2013>
「努力」って、どんなイメージですかね?
マンガだと、必死で努力してる人ってのは、スポーツでも戦闘でも仕事でも勉強でも、眉を吊り上げて頭から汗を飛ばして猪突猛進的な様相になってます。思い込んだら試練の道を。熱き青春の血潮。血と汗と涙。大熱血熱肉熱骨野球漫画。
でもねえ。現実の努力ってのは、そんなに血湧き肉踊るようなものじゃないですよ。
もっと地味~で、もっとカッコ悪いものです。
4年ほど前に、ssh273「自分が天才ではないとわかったときがスタート」という記事を書きました。
その時のキャッチコピー(?)は、「しゃーない、勉強するか」。
本当の努力ってのは、「しゃーない」という達観からスタートするものなんです。
より正確に言えば、それまでの明るい展望が怪しくなり、「やればできる」とか「何とかなる」とかいった根拠のない楽観が否定され、浅はかな期待や幻想が打ち砕かれて、「結局地道にシコシコと頑張るしか手はないのか」と、ある意味での「あきらめ」がしっかりと内在化された時に、やっと始まるものだということです。
人間誰しも、できるだけ少ない労力で、できるだけいい対価を得たいものです。
何かもっと効率的な方法はないか?もっと上手なやり方はないか?そういう風に考えたくなるものです。
それそのものは全然非難すべきことではありません。そういう気持ちこそが、様々な発明や技術革新などの進歩の原動力であったのですから。
ただ、こと人間が学力を鍛えるということに関しては、残念ながら革命的な方法ってのはありません。
ま、あるわけないですね。技術や機械や組織と違って、生身の一人の人間の鍛え方なんですから。
何を今さらの当たり前ではありますが、勉強ってのは、手間隙かけて、地道にやるしか方策がありません。10回やって覚えなければ11回、12回と繰り返すしかない。時間をかける、手間をかける、回数を重ねる、丁寧に調べる、手を使って書く、耳を使って聴く、口を使って音読したり話したりする・・・そういう作業を重ねる以外に、有効な方策はありません。
なんですけど、生徒の方は、どうしても「それ以上」のやり方があるんじゃないか?とムダな期待をしちゃうものです。私だってそうでした。
生まれて初めて高校生をやっているんですから、どうしたって不慣れで勘違いをします。人間だれしも「自分にだけはいいことがあるんじゃないか」と夢想するものです。特に子どものうちは。
そういう幻想や夢想が、学習活動の中で打ち砕かれたときのショックは、かなりのものです。
泣く生徒もたくさんいます。私もたくさん見てきました。
でも、泣いて終わらない生徒もたくさんいました。ボロボロと涙を落とした翌日から、別人のようにがむしゃらに勉強に取り組み始めた生徒もたくさん見てきました。
現実を受け止めるのは、なかなかつらいものです。でも、現実を受け止めなければ、努力は始まりません。受験は現実世界の戦いです。
一旦絶望しないと、本当の希望は持てない。
誰がどこで言ったのかは忘れました。文言も正確じゃないかもしれません。けど、内容は間違いありません。
私の好きな観点です。
絶望というのは、現実をきちんと理解して受け止めることでしょう。現実ってのは、夢のない世界です。
その現実を受け止めてこそ、現実世界で自分のやれることが正しく見えてくる。
がっくり落ち込んで、泣いて、大きくフーーーーッとため息をついて、「しゃーない、やるしかないな・・・」と諦めに似た覚悟が決まった時、ようやく本当の努力がスタートします。