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ssh613 総閲覧数1,400,000件のお礼 [ご挨拶&エッセイ]

<2013>

 

 今日の土曜日、珍しくお休みです。

 土曜日って滅多に休めないんですよ。クラブとか模試とか補習とかPTAとか、たいてい何かあって。実に非日常的な気分であります。こういうのも「ハレ」というのかしら。

 そんな珍しくお休みの本日、総閲覧数が140万件となりました。皆様のご訪問にお礼を申し上げます。

 毎度同じようなお礼の言葉ばかりで芸がありませんが、縁もゆかりもない方々に自分の書いたものを読んで頂けるというのは本当に嬉しい事です。

 さて、今回の節目の小話ですが、クルマとの出会いのことなんぞを書くことにします。

 

 

 幼少期の私は大変なクルマ好きでした。

 どのくらい好きだったかって、新聞にクルマの広告があると、そのクルマの写真を切り取って借家の壁にセロテープで貼付けて並べていたくらい。

 1960年代の我がイナカでは、自家用車はまだまだ珍しいものでした。路上はタクシーやトラックやライトバン(今で言うワゴン)などの営業車ばかり。オート3輪なんてのもかなり走っていました。

 たまにクルマを持っているが家があっても、それは営業兼用のライトバンやトラック(ボディの横に「自家用」って漢字で書いてあったんですよ)か、でなけりゃ軽自動車(当時は軽自動車限定免許ってのがあったのです)TVコマーシャルに出てくるような普通車のセダンを持っている家なんかしごく珍しかった。ましてやスポーツカーなんか大変なレアものでした。外車なんぞTVドラマでギャングが乗ってる場面でしか見たことありませんでした。

 

 そんな私の生家の真向かいがタクシー屋だったんです。

 そこの息子さんと私は同い年で、保育園から大の仲良し。

 タクシーですから、当然すべて普通車のセダンです。まだまだ高嶺の花だったコロナやクラウンといった乗用車がいっぱいある。何より、たまに新車が入ってくる。これは刺激的でしたねえ。

 営業の合間に事業所で待機しているタクシーに、私は彼といっしょに乗り込んで遊んでいました。至福の時です。


 

 当時、クルマ好きは「カーキチ」(カー気違い)と呼ばれていました。少年時代の私も相当なカーキチでした。道路を走るクルマは、日本車であれば、メーカー・車種のみならずグレードまで一目で判別できました。この並外れた能力がその後の人生で何の役にも立たなかったのは言うまでもありません。

 

 「カーグラフィック」などの雑誌を手がけた小林彰太郎は幼少期から大変なクルマ好きでした。家には女中さんがいたのですが、家族がタクシーで出かける際、小林少年は女中を制止して自らタクシーを拾う役を買って出ていたそうです。

 感心な少年だなあ、という話ではありません。女中さんに任せておくとたまたま走ってきたタクシーを呼んでしまって、自分の乗りたい車種に乗れないのが気に入らなかったんです。彼は好きな車種に乗るために、狙ったタクシーを止めていたのです。

 この気持ちはよーく分かりますね。私も向いのタクシー屋に新型のコロナやクラウンが入ると、どうしてもそれに乗りたかったですから。

 

 そんな私が、ある時を境に、パタリとクルマへの興味関心を失います。

 

 今も昔も、日本最大の自動車メーカーはトヨタです。向かいのタクシー屋も全車トヨタでした。

 トヨタ車は子ども心にもカッコよかった。トヨタに比べたら、日産・ホンダ・マツダ・三菱・いすゞ(当時は乗用車も作っていた)・スズキ・ダイハツ・スバルなんて、車種も少ないし小型車が多いし、なんかヤボったい印象でした。主にコマーシャルのせいでしょうけど。

 

 その大好きなトヨタに幻滅するような出来事があったのです。昭和50年排出ガス規制です。

 昭和3040年代は公害の時代でした。中学の公民の教科書でも学ぶ四大公害病(水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市喘息)は工場からの有毒排出物が原因でした。しかし、有毒物を排出していたのは工場だけではありません。

 自動車の排気ガスに含まれる有害成分は、当時たいへんな問題でした。東京では交差点に大気汚染検査機が設けられ、現在の有害物質は何ppmというのがリアルタイムでデジタル表示されていました。夏場になると紫外線で化学反応を起こして毒性が強まり、多くの人々が体調不良を訴えました。いわゆる光化学スモッグです。

 スモッグという言葉は若い人は知らないようですけど、漢字で書けば「煙霧」です。中国で大変な問題になってますが、スモッグの大気汚染については日本の方が大先輩です。

 

 大企業には何かと甘い我が国の歴代政府ですが、この時はさすがに決断して、自動車の排気ガスに含まれる有害物質を厳しく規制する法案を成立させます。

 この時、最後までグズグズ抵抗していたのが、トヨタだったのです。

 政府は各メーカーに期限までにどれだけのクルマが規制対応できるのかを問いただしました。どのメーカーも生産車の80%から100%が規制に対応できると返答するなか、トヨタだけが何と20%という回答をしてきました。

 このニュースを見た私は、一気にトヨタ愛から醒めます。ついでにクルマそのものへの興味も失せました。小学校4年生くらいだったでしょうか。

 

 

 私がクルマに再び目覚めるのは、大学入試を終えてからです。

 

 我が家はビンボーでしたので、自家用車などというものはありませんでした。

 ところが、私が大学進学した後、齢50近くなった母親が、突然運転免許を取って中古のスズキ・アルトを買ったのです。これは驚きましたねえ。で、私にも取れ取れと言うので、大学2年の時に免許を取りました。仮免の実技で脱輪こいて落ちたりしましたけど。

 

 時は1982年、時代はバブルに向かっていました。オイルショックと排出ガス規制で意気消沈していた自動車業界もようやく息を吹き返していました。スズキが初代アルトを47万円で発売し、それまで自転車かバイクかバス電車でしか動けなかった人々(特にイナカの女性、例えば私の母)に移動の自由を与えました。排ガス規制ですっかり悪者になったトヨタからはソアラという高級スポーツクーペが登場します。日産は日本初のターボエンジンを実用化し、ブルーバード・スカイライン・フェアレディZなどをヒットさせます。ロータリーエンジンがオイルショックで大打撃を受けて瀕死の状態だったマツダはFFファミリアを大ヒットさせて復活します。排ガス規制時代をCVCCエンジンで牽引したホンダからはシティが登場、のちに追加されたシティ・ターボは若者の憧れの的となります。三菱はターボカーを大々的に展開し、軽自動車でもダイハツ・ミラやスバル・レックスがバンバン売れました。

 好景気でしたから、それまでクルマとは無縁だった人たちもクルマを手にするようになります。その気になれば大学生がバイトでクルマを買える時代でした。私の大学の友人にもちらほらとクルマを手に入れる人間が出始めていました。

 

 大学受験勉強をしていたころは音楽とかオーディオとか好きなことをガマンして過していました。

 今にして思うと、クルマもそういうガマンの対象だったのかもしれません。理性で押さえ込んでいたものが、ノルマ終了とともに解放されたのかも。私は急激にクルマにのめり込みます。

 スイッチが入ってからは、遅れを取り戻すようにクルマのことを勉強(?)しました。教科書は徳大寺有恒の『間違いだらけのクルマ選び』シリーズ。暗記するほど読みました。徳大寺の論述にはいろいろと問題点もあるのですけど、それに気付くのはずっと後の話。評論文を読み、どんな走りのクルマなのだろうとあれこれ想像(空想?夢想?妄想?)していました。実際、自動車メーカーの就職試験も受験したのですよ。

 

 

 私の人生最初のクルマはマツダ・ファミリアです。大ヒットした初代FFファミリアの跡を継いだ2代目 BF型とかいう1986年のモデルです。日本で初めてフルタイム4WDを搭載したというのが話題で、私のファミリアも4WDでした(ただし花型のDOHCターボではなく廉価版)。ボディは当時もっともポピュラーな3ドアハッチバック、色は紺のメタリックでした。ミッションは当時の常識でマニュアル5速。親にバックアップしてもらって、新車で買いました。

 これが自分のものになった時は、もう本当に嬉しかったです。できるものなら一緒に寝たいくらいでした。ブルーグレーの内装とオレンジ色のメーター照明がなかなかカッコよかったです。何より4WDなので雪に強い。雪が降ると用もないのにわざわざ出かけたくらいです。スキーにもよく行きました。

 購入してまもなく、大学時代の友人に会うために片道550kmのドライブを敢行したりもしました。当時ナビなんてものはなかったので、事前に道路地図で入念に予習をして、ダッシュボードに道案内メモを貼付けて行きました。んー、若かったなあ。

 

 そんなに気に入っていたファミリアを、私はわずか2年数ヶ月で手放してしまうのですけど、そこから先の話はまたいずれ。150件のときかな。


 それでは、これからもスーパー小論文ハイスクールをよろしくお願いいたします


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