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ssh638 騙されるのは、騙して欲しいから [リテラシー・思考力]

<2013>

 

 ずいぶん前の話ですが、勤務校でちょっと大きな生徒指導上のトラブルがありました。

 4人ほどの生徒が関係していたんですが、幸い素直に自分たちの行動を認めたので、職員が手分けして家庭訪問に向かいました。

 ところが、私が担当した生徒の母親が、いきなり状況を否定してきたのですね。自分はやっていないけれど友達の手前そうは言えないと昨日は私に言った、私は息子を信じます、と。

 ただ、この時は息子が立派だった。昨日は母親にどうしても自分がやったとは言えなかったけれど、事実は学校で話した通りだと母親の前できちんと言った。以後、彼の指導はわりとスムーズに進みました。

 

 それにしても、なぜ母親は、手もなく息子のウソを信じたのでしょうか?

 この母親を笑える人はあまりいないと思います。ましてやバカな奴だと気安く非難するのは全くのお門違い。

 逆に、ウソだとわかっていても信じるのが親の愛だ、とかいうのも愚鈍です。

 

 この母親だって、息子を全く疑わなかったはずはありません。もし全く疑っていなかったら、自分もやったと息子が言った時に、それを受け止められなかったはずです。

 

 

 今回のテーマは、人は騙して欲しいと願っているから、自ら主体的に騙されるというお話です。


 

 自分の子どもがトラブルを起こした時に、それをきちんと受け止められない親というのはたくさんいます。私だってエラそうなことは言えません。

 とは言え、モノには程度があります。

 状況的にどう見ても言い逃れができそうにないのに、なおシラを切る子どもがいます。そういう子どもの見え透いたシラを真に受けてみせる親がいます。こういう場合の指導は実に困難です。

 

 私も若い頃はこういうケースにぶち当たると「なんちゅーバカどもだ」と理解不能に陥ってシャクにさわっていたものです。けど、今なら彼ら彼女らの気持ちがわかります。

 子どもがシラを切るのは当然です。自分の利益を守るためです。保身です。これは大人でもやります。大企業のエラい人でも政治家のセンセイ方でもやります。見よ東電を。いわんや子どもをや。

 

 では親はなぜ騙されるのか?騙されたいからです。

 

 親が子どもに騙されることには、いろんなメリットがあります。

  1. 子どもを信じる「いい親」を演じることができる。
  2. 子どもの非を認めると、その後の指導やら何やらで面倒くさい。
  3. 同じく、自分の指導力不足を認めることになる。
  4. 子どもに「ウソだろ?」と問いつめるのは、大変だし面倒だし怖い。逆ギレするかもしれないし。

 騙されたがっている親は、子どもに対する言葉遣いからして弱っちいものです。

 「やったんだな。」とか「詳しく話しなさい。」とかいうような聞き方ができない。いきなり「やってないでしょうね?」とか言っちゃう。

 問いただす時点で「やってない」という答えを期待しちゃってるんです。

 

 こういうのも、保身と言えば保身です。でも、例えば東電のおエラいさんたちのような、保身のためならプライドも何もかなぐり捨てて命すら掛ける(?)あの唐変木な姿勢とは違うんじゃないしら。

 

 

 こういう親御さんは、心の平安を崩されるのがものすごく怖いんじゃないかと私は思います。

 本当のことを受け止めるのは、怖いですよ。

 心が乱れます。何かしないといけなくなります。大変です。

 

 

 ブライアン・アダムズの1998年のアルバム「On a Day Like Today」の終曲「Lie to Me」は、浮気された女に対して上手なウソで僕を騙してくれという歌です。

 Tell me the things I want to hear.  Baby just swear that you lie to me. なんて歌詞は、まあ切ないというより、相当情けないですな。けっこう好きな曲ですけど。

 

 相手が親密である方が、こういう感情は生まれやすいんじゃないでしょうか。家族とか恋人とか。あるいは、自分の所属する組織(会社・学校・地域・国)とか、自分が崇拝する対象(アイドル・スポーツチーム・ブランド・政治家)とか。

 

 

 アジア太平洋戦争において庶民は騙されていたという指摘が敗戦後によくなされました。

 これには多くの異論も出ています。騙される側の責任を叱責する議論もあります。

 私自身は「騙された」の一言で逃げるのはあまりに安易だと思う一方、騙された側も悪いのだと責任を厳しく追及するのもどーかなと思います。人間って、そんなに強くないですよ。

 当時の皇国の赤子たちも、大本営的なるものに騙されることを欲していたんじゃないですかね。

 騙されちまえば愛国者、疑えば非国民、ですもん。積極的に騙されるモチベーションは十分過ぎるでしょう。

 

 

 原子力発電の危険性がさんざん指摘されても、あまり反応がなかったのも、たぶん似たようなもんでしょう。

 今日たまたまスクラップブックの整理をしたのですけど、チェルノブイリ原発関係のスクラップがいっぱい出てきました。

 あの時も原発の危険性はさんざん指摘された。でも、最後に勝ったのは「日本の原発は方式が違うから安全」というセリフ。全然違わねえじゃねえかということはフクイチで証明されてしまったのだけれど。

 四半世紀前のあの事故の時、日本の原発は安全だと心底信じていた人って、本当にいたんでしょうか?

 私はいなかったと思います。

 でも、みんな、そう思った。と言うより、思いたがった。そうであれば、安心できる。そうであって欲しい。いや、そうであるはずだ、と。

 私もそうでした。日本の原発がメルトダウンなんか起こさないと思いました。たぶん、自らの意思で、主体的にそう思うように努力したのでしょう。

 

 

 人間は、心の平安を守るためなら、自ら騙されようとするんですよ。

 人間って、弱っちいもんです。でも、そこをスタート地点にするしかないんですね。

 騙して欲しい、騙されたいという人の気持ちは、私もよーく理解できます。でも、それっきりというのは、私はキライですね。

 騙されることで得られる平安なんて、しょせん一時しのぎですし。


 

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