ssh715 無責任な自己責任論者 [社会]
<2015>
sshのマイカテゴリーに「自己無責任論」というカテゴリーがあります。(注:Ver.2.0では「社会」「リテラシー・思考力」に繰り入れ)
自己無責任論とは、自らの責任能力を否定し、他者に責任を求めることで(目先の)利益を得ようとすること。クレーマーや職責だけに忠実な人たちを批判したものです。
イスラム国人質事件(sshは政府に逆らってイスラム国という名称を継続使用します)でまたぞろ「自己責任論」が亡霊のように蘇りました。イラク人質事件で極めて不快な思いをした私としては、まったく懲りないなと実にイヤな気分です。「歴史に学ばない」どころか、15年も経てばもうすっかり無かったことにしちまうんですかね。
今回の記事では、自己責任論者ほど無責任な者はいないということを書くことにします。
そもそも自己責任という言葉は、自分に対して使うことが非常に少ない。
自己責任は、主に他者を非難する時に使われる。他者が何かトラブルに陥ったとき、その原因を作ったのは本人なのだから責任は本人にあるという形で他者を非難する。
自己責任論は、しょせん他者を責めるための方便に過ぎない。
湯浅誠は自己責任論を「他己責任論」と批判しています。
日本人の考える「責任」とresponsibilityは少々感覚が違います。responsibilityはresponse(反応する)+ability(能力)=反応能力でして、つまり2者以上の間でのやり取りなり契約なりの中で、片方から求められるものに対応することができることというのが元来の意味です。2001年のイラク人質事件での自己責任バッシングを報道した海外プレスは、自己責任をself-responsibilityと訳してみたもののどうもピンとこなくて、やむなくjikosekininという表現も使ったそうです。まあ本来2者以上が必要なresponsibilityがselfとくっつくのは珍妙ではあります。
以前self-responsibilityで英語のサイトをグーグル検索したことがあります。用例は一応見つかりましたが、極めて限定的で、あまり一般性のない表現でした。
さて、自己責任論の便利なところは、本人のせい、すなわち自業自得だということになれば、本人以外には何の責任も求められないことです。
危険な場所に行った本人が悪いということであれば、国も外務省も助けてやる必要はない。
メディアもあれこれ取材したり問題を掘り起こしたりする必要はない。悪いのは本人だから。
ケガしようが殺されようが、国民が心を痛める必要はない。自業自得なんだから。殺害される前から自害してしまえと言っていたババアもいたようです。
私たちもあれこれ考える必要はない。自分のせいで自分の命を落としたヤツがいただけの話、自分にはカンケーない。心は安らか、明日もきっといいことがあるぞ。
それが証拠に、どーですか、この間の自己責任論者たちのテンションの高さは。
ただただ、人質になった人たちがいかに無鉄砲で無責任で迷惑かという非難を、かなり高揚した気分で声高に叫んでいる。
いじめっ子たちは、いじめを働くとき、自分たちの創造性をフルに発揮し、実に見事な言葉や行動を次々に編み出します。
創造性を発揮する時、人は喜びを感じるものです。
自己責任論者たちの言葉からは、そういう喜びが感じられます。
意見の異なる者たちの言葉を即座に否定し、いかに当事者の自己責任であるかをまくしたてている彼ら彼女らは、おそらく普段に比べてずっと頭がよく回転し、我ながら感心するような非難の言葉やレトリックが出て来るのでしょう。
その間、生身の人間の生命が危険にさらされているということに対する焦りも悲しみもつらさも迷いも、一切ありません。自己責任論者は、自らの創造性に酔っています。
だいたい、自己責任なんてシャレた言葉を使うから、正論を言ってるような錯覚に陥るのですよ。
「危険な場所に行って拘束されたのは自己責任だ。交渉をする必要はない。」と言えば正論を言ってるように響きますけどね、要はこういうことでしょ。
「あいつらが悪いんだもん。あいつらが勝手にやったんだもん。ボク悪くないもん。ボク関係ないもん。ボク何もしなくていいんだもん。」
自己責任論をぶつ人たちの言葉の後ろに、「だからボクorアタシは悪くないもん、何もしなくていいんだもん」とくっつけてみてください。
ほぼ100%、自然につながるはずです。
その程度の人たちなんですよ、自己責任論者ってのは。
よーするに、何の責任も取りたくない、何もしたくない、何も考えたくない人たちなんです。
せめて、心くらい痛めたらどうですかね。