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ssh718 勇気・元気・感動〜いつからやり取りするものになった? [三題噺]

<2015>

 

 山田太一が朝日新聞のインタビュー記事で書いていたこと。

 みんなに勇気と感動を与えられるように頑張ります、と若いアスリートたちが口にする。最初はTV的な言葉をなぞって修辞的な物言いをしているのか思っていたが、どうも彼ら彼女らは本当にそういうつもりでそういう表現を言使っているらしいと。

 

 山田のファンである私は、授業の合間に生徒にちょっと聞いてみました。

 「あのさ、勇気って、出すもの?それとも、与えたりもらったりするもの?」

 一人一人の答えを聞いたわけじゃないですが、生徒の感覚からすると、勇気をもらうとか、勇気を与えるとかいうのは、いたって自然な物言いのようです。

 

 私の感覚はこんな感じ。

 「勇気を出す」「勇気が湧く」この2つは私としてはごく自然。

 「勇気を与える」は、不自然じゃないけど、割と修辞的。ちょっとデコレーションの効いた表現。

 「勇気をもらう」は日本語として非正規雇用の用法。キャッチコピー。わざと妙な言い回しをすることで面白みを狙った表現。

 

 同様の違和感を感じるのが、「元気にする」と「感動をありがとう」。

 元気って、するもんじゃなくて、出すもんじゃないっすか?

 感動って、ありがたがるもんじゃなくて、するもんじゃないっすか?


 

 最初はキャッチコピーやハズしとして使われた表現が、「これは面白い」ということでマスメディアで多用されるようになる。やがてその多用に慣らされた人たちが出てきて、それが自明の「自然な」言い回しになる。

 

 新しい表現が多用されるようになり、正用法に昇格することはよくあることです。言語学的に極めて自然な現象。

 ただ、ここで気になるのは、マスメディアによって多用される表現は、必ずしも多くの人々がよろしいものとして使用するようになるのとは一致しないということ。

 資本主義社会において、メディアはビジネスとして媒体の仕事をやっています。そこで流通するニュースも番組もキャッチコピーも、商売になりそうなものを、メディア側が視聴者に送りつけて流通がスタートする。視聴者から発信することは不可能ではないけれど、メディア側が送ろうと決めなければ送り出されることはない。流通の生殺与奪権はメディアが握っている。しかもメディアの中枢を担っているのは一握りの人たちです。彼らの判断が、言葉の流通を決めている。

 そうやって少数の人間によって流されると決められた表現が、多数の人々の思考を支配してしまう。


 ジョージ・オーウェルの小説『1984年』は、近未来の全体主義国家をモデルとした小説です。もうとっくに21世紀になってますけど、小説の中身は今もって価値があります。

 その中に「ニュースピーク」という英語が出てきます。これは英語を単純化した新英語で、その中で政治や哲学や思想や表現に関わる単語はすべて抹消されています。良し悪しに関わる言葉すら「good」一語のみ。とても良いのなら「plusgood」さらに良ければ「doubleplusgood」。逆に良くないものは「ungood」。もっと良くなければ「plucungood」。

 政治や社会に違和感を持っていたとしても、それを表すことのできる言葉がなければ、表現のしようはありません。

 いや、それはまだ序の口。

 ニュースピークで育った世代は、そもそも政治や社会に対する違和感を表現する言葉が存在することを知らない。だから違和感そのものが明確に持てない。「何かヘンだな」と思っても、それを言い当てた言葉を一度も聞いたことがないのだから、違和感を違和感として対象化すること自体ができない。


 マスメディアに関わる方々には、自分たちがどれだけ「教育的」な存在であるのか、もちっと自覚して欲しいなと思います。

 メディアが多用する表現は、やがて日本語としてフツーのものとなる。それだけで終わらず、それは若い世代の思考回路を支配する。

 

 今、若い世代は、勇気は与えるものであり、元気はするものであり、感動はありがたがるものだと思い始めています。

 勇気も元気も感動も、主体的なものだと私は思っています。

 勇気は自らが奮うべきもの。他者に励ましてもらうことはあるにしても、最後は本人が勇気を振り絞るもの。

 元気は自ら出すもの。元気を出し、元気になり、そして頑張る。

 感動は、予想を超える出来事から自らがするもの。感動は買い物じゃない。他者から感動をもらうことを期待するような物欲しげな態度をとるべきじゃない。

 

 人生の主役は自分です。勇気も元気も感動も、自分で得るものです。


 

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