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ssh719 成田と辺野古と高校再編 [三題噺]

<2015>

 

 旅行好きの兄が海外に行くたびにこぼすことがあります。

 「成田はダメだ。日本の窓口として全然貧弱だ。滑走路からして足りない。」

 

 まあでも、ムリもないです。

 成田空港は羽田空港のキャパ不足を解消すべく1960年代に計画がなされました。ところが用地買収からして難航、国は強引に用地を収奪し着工しましたが、これが火に油を注ぎ、大規模な反対闘争に発展しました。成田から遠くは慣れた私の大学にもこの闘争に参加経験のある先輩がいたくらいです。おかげで工事は遅れに遅れ、開港は 1978年にズレ込みました。

 開港後も反対闘争は続き、いくつかの事件が起きました。結局、過去の行為を国が正式に謝罪し、今後の工事は民主的な手続きで進めることとして、やっと第2期工事がスタートしました。

 そういう経緯なので、もはや国の都合で滑走路を延伸したり増やしたりの工事をガンガン進めることはできません。成田空港の整備が遅々として進まないのは、国がゴリ押ししたことのツケなんです。

 

 

 話は変わって、私の地元では、十余年前に高校再編という問題が起きました。

 少子化の影響で、県内の高校すべてをそのまま存続させることは難しいし合理的ではない。と、ここまでは誰もが納得していました。

 従って、地域校と呼ばれる小規模高校を抱える地区は、高校存続のためにどうすべきかを真剣に考えていました。

 ところが。

 改革派を自認する知事の下、教育委員会が突然、具体的な高校名を挙げて統廃合プランを発表したのです。


 

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ssh718 勇気・元気・感動〜いつからやり取りするものになった? [三題噺]

<2015>

 

 山田太一が朝日新聞のインタビュー記事で書いていたこと。

 みんなに勇気と感動を与えられるように頑張ります、と若いアスリートたちが口にする。最初はTV的な言葉をなぞって修辞的な物言いをしているのか思っていたが、どうも彼ら彼女らは本当にそういうつもりでそういう表現を言使っているらしいと。

 

 山田のファンである私は、授業の合間に生徒にちょっと聞いてみました。

 「あのさ、勇気って、出すもの?それとも、与えたりもらったりするもの?」

 一人一人の答えを聞いたわけじゃないですが、生徒の感覚からすると、勇気をもらうとか、勇気を与えるとかいうのは、いたって自然な物言いのようです。

 

 私の感覚はこんな感じ。

 「勇気を出す」「勇気が湧く」この2つは私としてはごく自然。

 「勇気を与える」は、不自然じゃないけど、割と修辞的。ちょっとデコレーションの効いた表現。

 「勇気をもらう」は日本語として非正規雇用の用法。キャッチコピー。わざと妙な言い回しをすることで面白みを狙った表現。

 

 同様の違和感を感じるのが、「元気にする」と「感動をありがとう」。

 元気って、するもんじゃなくて、出すもんじゃないっすか?

 感動って、ありがたがるもんじゃなくて、するもんじゃないっすか?


 

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ssh691 死刑と原発と防衛問題〜なぜ話は噛み合ないか [三題噺]

<2014>

 

 久々の三題噺はちょいと社会派っぽいタイトルです。

 

 かねてより宣言しておりますように、sshは我が国の死刑制度と原発に反対の立場を明確にしております。

 その論拠はssh478に記された通り。

 日本の司法制度と司法に関わる組織(警察・検察・裁判所)には死刑という極刑を安全に運営する力がない。

 日本の原子力運営に関わる組織(政府・行政官庁・電力会社・学会・その他原子力関係の諸組織)には、原子力という極めて強力でリスクの大きなエネルギーを扱うだけの責任能力がない。

 

 仮に死刑制度が真に必要な制度であったとしても、原子力エネルギーが真に必要なエネルギーであったとしても、今の日本にはそれを任せられる組織も制度も人材もない。

 それがssh的死刑原発反対論です。

 

 

 死刑制度は、日本では(ことに日本のネットでは)いつでもホットな話題になります。賛成論者と反対論者が熱気を持ってバトルに参戦してくる。

 でも、話はあまり噛み合いません。

 熱気があり過ぎてただの罵り合い、トークバトル(書き込みバトル)になっちまうというのが一因。

 しかし、噛み合ない主因は別の部分。

 

 死刑制度支持者が主張するのは、制度そのものの意義と、死刑制度の犯罪抑止力が中心。

 死刑制度反対者が主張するのは主に、世界の死刑廃止の流れと、冤罪の危険。

 

 噛み合ないのは、それぞれの後半部分。

 死刑支持者は、一般大衆の規範意識を疑っている。だから死刑という制度でブレーキをかけるべきだと。

 死刑反対者は、司法に関わる人間の能力を疑っている。冤罪は絶対に起こるから死刑は危険だと。

 「人間は過ちを犯す」ということを認めている点では同じですが、その視線の向かう先が違う。

 

 

 同じことは、原発問題にも言えます。


 

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ssh663 鼻血と君が代斉唱と英語学習の重要性(2) [三題噺]

<2014>

 

 自称愛国者は、実はミーハーである。彼らがわっと騒ぐと、政財界の利益に叶う方向で情報が流れにくくなる。てなことを書いたのがssh662です。(と、何気なく書いてますけど、自分の書いた文章であっても要約は意外とできないものですよ。本当に言いたい事をよく狙って書かれた文章って案外少ないものです。)

 

 そのシメとして書いたのが、「だからみなさん、英語を勉強しましょう。」

 私が英語の先生だからふざけて書いたわけじゃありません。

 もしかしたら、英語の勉強をすることのすごく重要なモチベーションとなるんじゃないかと考えているのですよ。


 ミーハーは、目立つもの、メジャーなもの、わかりやすいもの、みんなが見ているものにしか反応しません。

 目立たないもの、マイナーなもの、わかりにくいもの、少数の人しか見ていないものはスルー。

 中央紙の悪口は言っても(実はよく読んでなくても)、地方紙はチェックしていない。

 週刊誌の悪口は言っても、専門誌や総合誌はまったく触れていない。

 歴史教科書問題には騒ぐが、教科書そのものは読んでいない。と言うか、そもそも学生時代に教科書をきちんと読んでいない(ミーハーですから)

 Yahooニュースは見ていても、CNNなんか絶対見ていない。

 

 彼ら彼女らにとって、もっとも苦手なのは、恐らく外国語で書かれた情報です。


 

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ssh662 鼻血と君が代斉唱と英語学習の重要性(1) [三題噺]

<2014>

 

 『美味しんぼ 福島の真実編』がちょっとした物議を醸しています。

 私はオリジナルを全く見ていないのであまり大したことは言えないのですけど、ネットレベルのお話だと、福島を訪問した主人公の山岡が鼻血を出す一コマが特にやり玉に上がっているみたいです。どーせネットレベルの批判者も例によってオリジナルは読んでないでしょうけど。


 『美味しんぼ』は割とよく読んでいます。

 ただし、家には一冊もありません。ビッグコミックスピリッツに連載されたのが私が20歳くらいのときで、当時私はスピリッツを購読していたので自動的に読んでいました。

 数年前に腰を痛めて整形外科通いをしていた時、待合室に『美味しんぼ』単行本がズラリと揃えられていて、待ち時間にあらかた読んでしまいました。一緒に置いてあった『ゴルゴ13』とともに。

 

 あのマンガは割と珍妙なマンガです。物語とドキュメンタリーとアジテーションが入り交じっている。原作者の雁屋哲が取材した実在の人物のインタビューがほとんどそのまま使われていると思われるような部分がちょくちょく登場します。

 で、くだんのエピソードでも井戸川前双葉町町長への取材があったようで、劇中で福島には住まない方がいいという旨の発言がなされているらしく、これがまた物議のネタになっている。

 井戸川前町長は本当にひどい鼻血に悩まされているようですけど、もちろん放射線を浴びた人がみんながみんな鼻血を苛むわけでもありません。

 ただ、先日次男が観ていたDVDのハリウッド映画に、鼻血で被曝者であることがバレるというシーンがありました。してみると被曝=鼻血というのは、少なくともエンタメ界では「よくある話」として扱われているもののようです。安倍政権が読売新聞ともどもハリウッドに抗議したという話も聞きませんし。


 

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ssh607 使える英語とキャラチェンジとお買い物 [三題噺]

<2013>

 

 久しぶりの三題噺です。

 

 

 何を隠そう、私はいたって内向的な人間です。初対面の人と話すのはもちろん、仕事で電話をかけることすら億劫です。

 昨今はコミュニケーション能力とやらが妙に重視されてますが、もし私が今日日の学生だったらシューカツは困難を極めたことでしょう。バブル時代に就職活動で苦労したような人間ですし(ssh503参照)

 

 性向のせいかどうか知りませんが、私は話が回りくどいタチです。「~というのは分かるんですけど」とかいうような、譲歩や条件や但し書きのセリフがすごく多い。 

 それと、私は会話中にあまり相手に聞き返したり確認したりということをしません。何だかよくわからない時でも、とりあえず相づちを打ってしまうんですよ。大概は会話しているうちに後で何だかわかりますから。

 私は英語のセンセイではあるのですけど、パーソナリティはあんまり欧米キャラじゃないのですね。

 

 そのせいか、私にとって、英語を話すのはなかなかの大仕事です。

 より正確には、本当に自分の言わんとしていることを、過不足なく言おうとすると、途端に困難を極める。

 普段の調子で「~というのは分かるんですけど」みたいなことから話そうとすると、ちっとも意見や用件にたどり着けない。話の組み立て方そのものを変えないと、どーもうまく行かない。

 

 つーても、話の組み立て方ってのは、その人の思考回路そのものでもあります。切り替えはなかなか大変です。

 私にとって、英語でコミュニケーションを取るというのは、かなりのキャラチェンジを伴う行為です。日頃の回りくどくて断定を避けるキャラから、いささかストレートでアクティブで押しの強いキャラに変わる必要がある。

 

 実際、同じようなことを言う人はけっこういます。使う言語が変わると、キャラも変わる。というかキャラを変えないといけないと。


 

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ssh486 絶対音感とピカソと文章を書くこと(4) [三題噺]

<2011>

 

 ssh479ssh480ssh485と続いた三題噺の完結編です。

 

 ssh479, 480は、この世界のありのままの姿に人間は耐えきれないということを中心に書いたつもりです。

 世界は極めて豊饒で多面的なものであり、それは人間の理性ではとても消化しきれないレベルである。それはある意味恐ろしさを感じさせるほどであり、生身の人間はそのことにまず耐えられない。言語はそういう「世界」の豊饒さや多面性を去勢して弱体化させ、私たち人間の理性で受け止められるように手なずける武器である。しかしそれゆえ、言語化されたものはナマの世界の持つ豊かさや多面性を伝えることはできず、また理性的にまとめようとしているが故に葛藤という新たな問題も生む。

 ssh485は、ナマの世界の迫力を減圧して手なずける武器は言語だけでなく、絵画や写真や映像も同じであるという指摘から、ピカソはナマの世界の豊饒さや多面性を減圧せずに伝えようとああいうメチャクチャな技法を用いたのではないか、というお話でした。


 さて、課題文の終盤で、筆者はこう述べています。

◆◆筆を下ろすことが大きな試練なのは一列に並べなければならないからである。◆◆

 

 この地上には数千の言語があると言われています。正確な数は言語の定義や数え方によって異なるので諸説ありますが、50007000くらいというのが定説。

 しかし、そのどれ一つ取っても、2列とか3列で並べられる言語というのは、たぶんないはずです。

 話し言葉のみならず、書き言葉でも、言語は一列に並んでいなければならない。仮に複数の文章が同じ紙やディスプレイに並んでいたとしても、それら一つ一つはやはり一列に並べられているし、読み手は同時に2つ以上の文を受け止めることはできない。

 

 ところが。

 人間は、言語と全く同じように、ものごとを受け止めたり感じたり考えたりしているわけではありません。

 

 小学校低学年の書く作文や日記は、いたって単調なものです。

 「きょうは、◯◯へおかあさんといっしょにいって、××をかって、▽▽をたべて・・・」みたいな感じ。

 彼ら彼女らは、ものごとをただ起きた順番に書くだけです。

 こういう文章を書くのは、実に楽チンです。だって、書くべきものごとが一列にならんでいるのだから。

 彼ら彼女らが困るのは、一列に並べられるような出来事がないとき。

 こういうとき「書くことがない」と泣き言を言うんですよね。

 

 もちろん、書くことがないはずはないんです。生きていれば、文章のネタはいくらでもある。

 でも、小さい子どもには、一列に並んでくれている出来事を、そのまま一列に文章にするというのが精一杯なんです。

 小利口な子どもでも、せいぜいその出来事のスキマに「たのしかったです」とか「すてきでした」とか、ちょっと大人の喜びそうな形容詞を入れるくらい。

 

 

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ssh485 絶対音感とピカソと文章を書くこと(3) [三題噺]

<2011>

 

 ssh479ssh480で紹介した、中井久夫の書いた課題文。これを初めて読んだのは2年前。金沢大の受験準備をしていた生徒の個別指導をしたときです。

 さて、この課題文には続きがあります。(太字は私によります)

 

◆◆しかし、私たちは、言語以前の浮動的で多重的なマトリックス(母胎)状態にとどまるのも苦しい。私たちは、水中でもがく溺れかけた人のように急速に言語世界に向かって浮上しようとしないではおれない。こうして前言語的なマトリックスは言語の衣を着せられてゆく。

 そうなるとマトリックスは、言葉に変換されて、イメージは漢字や知っている同義語、類義語に代わる。外国語が裏打ちされることもある。言葉の並ぶ一種の「パレット」となってゆく。この「パレット」は徐々に言語優位になってゆく。まだイメージがまとわりついているかもしれないが、これも絵画的・模式的にされてゆく。絵画や写真や記憶像は素のイメージではない。それらは、それを減圧し、手なずける人間的手段の一つである

 ここで校庭の情景に一気に戻ると、私には学童たちがみなひらひらする布のようなものを背中につけているように見える。布は名詞の場合には格助詞である。そして、格助詞のついた名詞が組み合わさろうとする。仲良し二人組みという感じである。それがお互いに呼応し合って、もっと大きなグループを作ってゆく。文節、副文章、センテンスだ。その過程で淘汰されて消えるものもある。いろいろな段階で消えてゆく。センテンスも消えたり融合したりする。何とか列らしくなったところで筆を下す。これはセンテンスを書こうとすることである。パレット段階で文字を書いても、それはメモである。この二つは大いに違う。筆を下すことが大きな試練なのは一列に並べなければならないからである。

 同時に二つのことを言えないというのは、大きな限界でもあり、精神の安全保障でもある。世界が同時に無数の言葉で叫び出したら私たちは錯乱するしかない。

 言語の直線性すなわち一次元性は雲のような発想に対して強い規制をかける。言語以前の強烈で名前を持たない感覚を因果律とカテゴリーとによって整理してくれるのが言語表現である。妄想も言語表現であり、その意味では混沌に対する救いではある。◆◆

 

 実は、指導中だというのに、私はこの太字部分を読んで、いきなり大声で「あ~~~~~!」と叫んでしまったのです。

 私が叫んだ理由。それは、ピカソの絵についての長年の疑問が、ほんのちょっとだけ解けたような気がしたからです。


 

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ssh480 絶対音感とピカソと文章を書くこと(2) [三題噺]

<2011>

 

 ssh479の続きです。

 にしても、まーssh479って、改めて読みなおすと相当な駄文ですね。ひどいもんですわ。意味は分かりにくいしまとまりはないし。

 あんまりとっちらかってるから、整理整頓のために、ssh479の引用文を要約します。

 

 この世界は絶対的には極めて多重的な姿をしている。それは豊饒ではあるが、怖いほど強力な存在である。文章を書くという行為は多重的な絶対的世界を明確な相対的世界に置き換える作業であり、言語はありのままの絶対的な世界を相対化し、我々に御することができるレベルまで弱体化する力を持っている。ただし言語により相対化された世界には葛藤という新しい問題が生ずる。

 

 これ、もっと挑発的な言葉でまとめると、こうなります。

 この世界のありのままの姿は、人間にとって怖くて受け入れられないほど絶対的に強固なものである。人間にとって言語はその絶対的強固な世界を相対的なものに矮小化して弱体化する武器である。


 私たちが文章を書こうと思うとき、最初に頭に浮かぶもろもろのアイディアは、実にとらえどころのないグチャグチャとしたものであることが多いです。

 それを整理整頓し、1本の文章にしていくのは、かなり骨の折れるお仕事です。つらいです。

 まあ当然ですよね。だって、自分の理解力では強力すぎて耐えられないものを、何とか自分の理解の範囲内に収めようという作業なんですから。勝ち目のない相手を骨抜きにして、勝てるようにするための謀略、と言えばちょっと言い過ぎですか。

 どっちにしても、重労働であることは確か。

 

 ssh479が駄文なのは、私がその整理整頓を真面目にやらなかったからです。脳内に浮かんだ「あぶらなす浮きくらげ」を捕まえ切れていない。あっちこっちに浮きくらげがプカプカしている。読まされる方はいい迷惑です。

 こりゃまあ、まさに「悪い見本」ですわ。


 ただ、悪い見本にも、使い道はあります。

 この課題文をここまで読んだ時に(実はこの課題文、まだ続きがあるのです)、私の頭の中に浮かんだ浮きくらげは、ssh479みたいにグチャグチャした状態であったということは、判ってもらえるんじゃないでしょうか。

 実際に最初に私の頭に浮かんだものは、もっともっととらえどころのないものだったはずです。あれでも一応、日本語の文法に則って文章化されてはいますから、ちっとは相対化されているのですよ。全然ダメだけど。

 

 もし、私がもっとマジメにssh479をまとめていれば、私の脳内が最初はこれほどシッチャカメッチャカだったことは、お伝えできなかったでしょう。この辺が試験とか出版物のような一発勝負と違う、ブログのありがたさです。


 

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ssh479 絶対音感とピカソと文章を書くこと(1) [三題噺]

<2011>

 

◆◆

 私が文章を書く時に、よく浮かぶイメージがある。それは、小学校入学早々の学童たちと先生の朝のやりとりである。

 先生は声を張り上げて学堂を一列に並ばせようとする。「ここが先頭で、ここから縦一列に並んでください」「さあ、早く並んで、並んで!」と声を張り上げる。「先頭はきみ、次はあなた、その後ろはあなた」というふうに、列を作ろうとして、行ったり来たりする。

 子どもたちは最初わらわらと校庭に散らばっている。お互いに牽制しあって、顔を見合わせたり、友だちの後ろに付きたがったりする。それでも、先生が通りすぎるまでは列らしきものができかけているが、先生が通りすぎて背中をみせると、せっかくの列らしきものが崩れてゆく。結局、列ができるのは、朝礼の校長先生のおでましの時刻が切迫してくるからだ。先生が焦るにつれて子どもたちも事態を察して、最終的には間に合うことになるのが普通である。

 「子ども」という比喩は、単語から文節さらにはセンテンス、パラグラフにまで共通な何かを指している。私たちの中に生まれる考えは最初はわらわらと散らばる子どものようなものだと私は思う。それも最初は、はっきりとした形をなさない、それこそ、古事記ではないが、「あぶらなす浮きくらげ」のようなものが、意識の底に感触される。それが、あれも言いたい、これも言いたい、これも言おう、あれもなくちゃというふうになってくる。「あれ」「これ」の中味はまだ未分化である。

 そのうちに、この無定形のプレ発想とでもいうべきものが言葉になってくる。

 

 これは、夢が、朝覚めた瞬間は夢特有の豊饒多面性を持っているのに、これを言葉にすると、枝葉がすっかり払われて、単純なストーリーに収斂するのと似た過程である。夢はとらまえがたいけれども、思考の原型の一種である。

 子どもは夢の恐るべき多重性に直面しているのかもしれない。夢を怖がっていた子どもが、夢を言葉で表現すると同時に格段に楽になり、余裕をもって夢に対するようになる。我が家の子どもたちもそうであった。「夢」と言ったが、目覚めていた時に覚えている夢は前夜の夢作業(夢志向)が消化できなかった残滓である。夢のわかりにくさの半分はそのためだと私は思う。

 また、自閉症の世界はいわば絶対音感の世界であるらしい。絶対音感の人の苦しみは最相葉月の『絶対音感』(小学館、1988年)にあるが、それが音だけでなく、すべての感覚にわたってそうらしい。テンプル・グランディンという、自身が自閉症である動物学者の『動物感覚』(中尾ゆかり訳、日本放送出版協会、2006年)を読むと、この「リアル」な世界がいかに大変かがわかる。言語は、その世界の圧力を減圧するために生まれたのではないかと彼女がいうのもうなずけるような気持ちになる。

 言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係と言う粗い網をかぶせることである。世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界に対して優位に立てるということだ。

 

 しかし何事もよいことずくめではない。彼女によると言語のない世界には恐怖はあるが葛藤はないという。言語は葛藤を生む。その解釈がさらに葛藤を生み出す。

 さらに、言語の支配する世界はすべてにわたって相対音感の世界ということになる。相対性、文脈依存性は成人の記憶において明らかである。誰しも、生きてゆくにつれて、過去の事件の比重、意義、さらには内容、ストーリーさえ(たいていは自分に都合よく)変わる。しかし、人間はどこか生の現実(「即事」「もの自体」「現実界」など)から原理的に隔てられている虚無感を持つようになる。

 20世紀の偉大なドイツ語詩人リルケの「ドゥイノの悲歌」の主題の少なくとも一つは、この離隔感であるかと私は思う。わかりやすい第八の悲歌の冒頭を引いてみよう。

 

   あらゆる眼で生きものは見ている

   開かれた世界を。ただ、私たちの眼だけが

   まるで逆さまのようだ そしてまったく生きもののまわりに

   彼等の自由な外出を囲んで 罠として置かれている

   外にあるものを 私たちはただ動物の顔から

   知るだけだ なぜなら既に幼な児を

   私たちは振り向かせ 無理に背後に向って

   物の姿を見させているからだ

 

 晩年のリルケはキリスト教から距離を置くようになったらしい。一神教とは神の数が一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。      (中井久夫「日本語を組み立てる」 金沢大学の小論文入試問題より)◆◆


 

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