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ssh540 教員は戦わねばならない、誰も応援してくれないけれど [教育問題]

<2012>

 

 ここ12週間で数本の記事を書きためてあるのですけど、公開する機会を失っています。

 理由は例の大津市のいじめ自殺事件。

 ここまで大々的に報道すべきことかという疑念はありますが、悲惨な事件であることは確かです。

 教育ブログたるsshがこの件をスルーして他の記事を書くのは気が引ける。それで数日間あれこれ考えて、結局なにもできずに過ぎていました。

 

 こういう事件を知った時、私は言葉がうまく出てこなくなります。口頭でも書き言葉でもダメ。あれこれ考えているうちに、アウトプットできそうだと思った言葉がことごとくダメ出しされていく。どうしても言葉がとぎれとぎれになってしまう。

 

 「いじめ」についての私の立場はすでにssh17で示されています。

 いじめ行為はシカトや悪口やものを隠したりというレベルから、暴行・恐喝などの激しいものまであり、そのすべてが犯罪として扱えるわけではない。シカトや悪口だけのいじめ行為は犯罪とは認められない。いじめの定義は非常にあやふやであり、それを断罪するのは非常に困難である。だから、明確な犯罪行為である暴行や恐喝などだけは何としても防ぐという姿勢で望むのが得策ではないか、というものです。

 

 しかし、こんな論を立てたところで、実際の現場の仕事がラクになるわけもありません。

 大津市の件では犯罪行為を防ぐことができず、最悪の結末となっていまが、彼らが「犯罪行為だけは防ごう」という姿勢で臨んでいたとしても、この結末を防げたかどうかは何とも言えません。

 

 

 それにしても、気の滅入る話題だというのに、さらに気を滅入らせる人がネット界にはたくさんいます。

 Yahooの書き込みだと「教育委員は全員クビだ」だの「加害生徒を殺せ」だのと、威勢のいい(だけ)の書き込みがウジャウジャしています。

 こういうことを書く人ってのは、状況され整えば、級友をいじめ殺すかそれを傍観することができる人たちでしょう。理由は書きません。わかる人にはわかるし、わからない人には何万語尽くしてもわからないから。

 

 そんな中で、非常に共感のできる記事を見つけました。


 

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ssh537 文系秀才の憂鬱(1) [教育問題]

<2012>

 

 言葉による自己表現をメインに教育全般を扱うという触れ込みの当sshスーパー小論文ハイスクール。

 その名の通り、私はsshの記事の大半を高校生(or大学受験生)を想定して書いています。(高校生以外にもたくさんの方にも読んで頂いているのは大変にありがたいことです。)

 そういうsshで、こういう話題を書くのは少々気が引けるのですけど・・・。

 

 

 私の本業は高校の教員です。ですから、高校生に文理選択の指導もやります。

 で、数年前から私ははっきりと「理系は文系よりエラいんだ」と言っています。

 

 理系は文系よりも、やることが多いです。

 国立大学志望なら、国語・英語・数学IAIIB・社会科1科目にプラスして、理科をIIまで2科目と、数学IIICを勉強しないといけない。

 これが文系だと、最も科目負担がキツい東大・京大ですら、国語・英語・数学IAIIB・社会(地歴)2科目・理科1科目(しかもIまで)で済みます。数学IIICは不要、理科も地学か生物のIだけで大丈夫。化学IIだの物理だのは最初からいらない。

 (注:来年度入学生からは「脱ゆとり」の新課程で科目名も大きく変更となります。それでも理系の方が負担が大きいのは同じ。)

 

 1970年代あたりまでは、文系と理系には厳然たる階級の差が(全国ではないにしても)存在していました。

 中学時代によく読んだ受験コメディマンガでは、中高一貫私立校で入学早々コース分けテストが行われ、最も成績のいい生徒は東大医学部コースに振り分けられるというネタがありました。また、林真理子は高校時代に「結婚するなら国立理系の男」と思ったと書いています。一番成績のいい学生は国立理系コースだったので。

 70年代ころの日本の受験界では、まさに理系は文系よりも「上」の存在だったのです。

 

 さすがにそれは露骨過ぎて教育上よろしくないという配慮があったのか、その後は理系と文系はわりとイーブン(均等)に語られてきたように思います。学力によってではなく、やりたいことによって志望しようということでしょうか。学校という場では、その方が正義だと思います。

 

 思いますけど、理系が文系よりも多くの学習をせねばならないというのは、厳然たる事実です。

 で、このことが、文系の優等生たちに、えも言われぬ憂鬱を与えているのではないか、というのがこの記事の眼目です。

 題して、文系秀才の憂鬱。


 

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ssh533 誠心誠意、バカをやる〜文化祭の意義 [教育問題]

>2012>

 

 今年もやってきました、高校の文化祭シーズン。

 わが県では6月下旬から7月中旬がハイシーズン。期間は34日間。かなり大盤振る舞いです。

 

 2年前に「ssh342 文化祭は息抜きじゃない」という記事を書きました。内容はこんな感じ。

 

◆◆かつて、社会で生きていく様々なスキル他者との共同・労働のノウハウなどを子どもに教え込む仕事は地域共同体が担っていました。高度経済成長によって、そういう共同体は解体されました。今、日本の社会に、社会生活のスキルを教え込む場は、もはや学校以外に残されていません。

 文化祭には、小学校の運動会のような、大変な教育的な意義があります。一言で言えば、成長の機会。自分たちの手で、困難に思われる企画を運営し、それをやり抜く。こういう体験をした時、人はえも言われぬ充実感と自信を手にします。いい意味での成功体験です。

 文化祭は、お祭りじゃありません。息抜きでも、レクリーションでも、気分転換でもありません。生徒も教員も、必死です。必死になって、バカみたいな、学業には何ら結びつかないようなことを企画して運営します。◆◆

 

 私のこの認識には、今も変化はありません。お勉強がデキるという意味での「学力」を身につけること「だけ」が教育の目的であるなら、何もわざわざ学校に通う必要はありません。塾でも家庭でも、場合によっては子ども一人の力でも、学力を身に付けることは可能です。昨今ハヤリの親の教育力なるものが本当に高ければ、学校は無用の長物です。

 だからといって、学校に行くことをムダだと認める人はあまりいません。それは、学校というところは、行けるものなら行った方が、行かないよりはいいからです。その理由は、他の子どもがいるから。

 今や、学校にでも行かなければ、ヨソの子どもと交わって、笑ったり泣いたり傷ついたり傷つけられたりというチャンスはありません。

 

 小学校であれば運動会や音楽会。高校であれば文化祭。ここでどんなことに関わり、どんな困難を経験し、どうやってそれを乗り越えたか。それがその生徒の重要な成長経験となります。

 

 ただし。

 こういうものは、誠心誠意やらないと意義はありません。

 真剣にやるからこそ、悩むし、苦しむし、つらい。

 真剣に悩んで苦しむからこそ、それをやり切った時の達成感がある。

 

 バカなこと、ムダなものこそ、全身全霊をかけてやらねばならないのです。


 

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ssh520 小中学校のせいにはしたくない [教育問題]

<2012>

 

 当たり前のことですけど、高校生は小学校教育と中学校教育を経て入学してきます。

 で、これも当たり前ですけど、生徒の指導ってのは、なかなか思うように行きません。

 そうすると、ついこう思っちゃうんですね。

 「コイツ()一体どういう教育受けてきてんだよ?」と。

 

 私は高校の教員ですんで、非難の矛先は中学に向かっちゃう。

 こんな基本的なことがわからない?中学で教わっただろ?え、教わってない?なんてね。

 自分の指導に乗ってこない生徒がいると、どうしてもその原因を過去に求めたくなっちゃう。

 

 でもね。

 大学の先生方はきっと、同様のイライラを高校に感じているはずなんですよ。

 何でこんなヤツを大学に送ってくるんだ、と。

 

 一方、中学の先生は中学の先生で、小学校教育にいろいろと言いたい事があるはず。

 その小学校の先生方は、幼児教育(幼稚園と保育園)に注文があるはずです。

 

 で、教育を修了した学生を受け入れる側たる企業の場合、学校教育全体にものすごく注文したいことがある。

 大きな企業は大手メディアを通じて言いたいことを大っぴらに吐き出すチャンスがありますから、そういう注文はかなり流れます。

 

 幼児教育から企業までのすべてが口を揃えて非難の対象にできるのは親です。

 ここ10年ばかり、やたらと親の教育力が叫ばれているのは、多分にそういうことのせいでしょう。

 

 私はこういう非難がすごくキライなんです。

 

 

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ssh517 春休みも難しい [教育問題]

<2012>

 

 3月のどんづまりに年度内の宿題が何とか片付きまして、今日は春休みを取りました。

 1日だけですが、平日に休みが取れると気分的にはちょっとリフレッシュできます。

 

 学校職員の勤務システムをよく知らない方のために一応説明しておきますと、夏休みとか冬休みとか春休みとかの長期休業は授業がない期間であって、我々職員は通常勤務です。ただ、仕事の面で融通が効きますから、代休や年次休暇(略して年休。会社員の有給休暇とほぼ同義)が取りやすい。

 20年くらい前までは長期休業中にかなりのんびり休んでいた先生もいました。昔は事務仕事の要求が割と少なかったですし、週休2日制の代休(公務員は制度上週休2日だが教育職は土曜日が授業日のためその代休措置が必要)を長期休業中にまとめて取るパターンがあったからです。まあ、もっとも、年間20日分くらいある土曜勤務の代休をりましたが全部消化することなんか不可能でしたけど。


 ところで。職員のことはさておいても、学校では長期休業の設定が年々難しくなってます。

 ssh496春休みが難しいで、冬休みの設定がすごく難しくなっているという話を書きました。天皇誕生日と成人の日が実に厄介な場所にあると。

 実は、高校の場合、春休みもかなり難しいんです。


 

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ssh505 それでも、やる。 [教育問題]

<2012>

 

 2月になりました。私立大学の一般入試のハイシーズン突入です。

 私が勤務する県立高校の3年生も、いよいよ出陣です。

 この時期の3年生は特別編成授業という、補習のようなプログラムが用意されています。

 もちろん、それとは別に、個別指導もやります。特に面接・小論文は個別指導が命。

 

 と、ここまで読んで「は?」と思った方もおいででしょう。

 なんで県立高校の職員が、2月になって受験指導や個別指導をやってるの?と。

 そういう方はたぶん、東京とか横浜とか大阪とか、大都市部の住人でしょう。

 都市部の公立高校では、受験に関する事細かな指導はほぼまったくしないようです。そーゆーことは放課後に塾なり予備校なりでやってもらいなさい、と。

 ssh483で紹介した通りです。

 

 え?東京は以前とは違うって?

 はいはい、それは予算をドーピングしてもらっている日比谷など一部の都立高校のことでしょう。

 そーゆー高校はたぶん、あれこれケアしているんでしょう。

 

 でもね。

 んなもん、イナカじゃごくごく当たり前のことです。偉くもなんともないですよ。

 何せイナカにゃ予備校も塾もそんなにありません。

 何だかんだ言いつつ、最後は学校の先生が頼りです。

 頼られている以上、生徒達を何とかしてやらねばならんのですよ、イナカの教職員は。

 

 ここのところ、3年の担任のところには、ひっきりなしに生徒が来ています。

 それは出願の相談だったり、添削のお願いだったり、個別指導だったりですが、とにかくひっきりなしです。

 3年担任の先生方は、その生徒達に親身になって応対しています。

 厄介な過去問の添削は、家に持ち帰ってからこなして、翌日生徒に指導をしています。

 それはまさに、身を削るというか、大げさに言えば命の一部を削るような仕事ぶりです。

 疲れとストレスとその他もろもろと戦いながら、しかし担任は言います。

 

 「あー、何とかして受からせてやりたいなあ・・・。」

 

 

 断っておきますが、生徒達の受験結果がどうであっても、私たちにこれといって利益も損失もありません。

 たくさん合格しようが、その逆だろうが、私たちの待遇に変わりはありません。

 そもそも人事異動で10年以内に異動するんですから、何が起きようと教職員個人にはどうということもないのです。

 

 でも。それでも。

 私たちは、ヒーヒー言いながら生徒たちを最後まで面倒見ます。

 だって、放っておけないから。

 目の前に、進路実現のために苦労している生徒がいる。

 であれば、何とかしてやりたい。

 ただ、それだけです。


 

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ssh498 教育改革は必ず失敗する〜吉岡友治氏のブログより [教育問題]

<2012>


 大阪府知事選と市長選のダブル選挙で完全勝利した橋下センセイとそのお友達。選挙前から打ち出していた「教育基本条例」の制定に大変意欲的であります。

 

 sshは以前より、この基本条例とやらは具体的な教育ビジョンが皆無で、ただ教育を政治の支配下に置く事だけを求めた腐れ条例と評価しております。

 この条例案を政財界が支持するのは当然であるとして、そうでない人たちからもそこそこ支持があるというのはなかなか興味深いです。

 もしかして、政治が教育を支配すれば、教育が改革されると思っているんでしょうかね。

 

◆◆

  私は、幸か不幸か子供がいないので、教育に関わっていながら、あまり教育を語ることに熱心になれない。というより、教育という営為はそもそも時間がかかり、非常に非効率なものなので、因果関係が明確に出ない。そのとき良いと思ったことでも、後から「何だかな」と感じることは少なくない。だから「こういう教育がよい」と、口角泡を飛ばして論じる人の気が知れないのだ。「あなた、何を根拠にそんなにの確信的に語るのですか?」って、つい聞き返したくなる。 

 実際、教育改革なんてだいたい失敗しているじゃないか? 直近の例では「ゆとり教育」。あれが始まった直後、公然と批判する人は少なかったと思う。「生きる力」とか「自分で考える力」だっけ? あれも反対は出来にくいスローガンだったと思う。でも、その結果はどうか?「学力低下が起こる」って、よってたかって非難しまくって、結局元に戻った。当初喧伝されていた「受験勉強批判」の高邁な理想はどこに行ったのかね?それと「教育再生会議」。ノーベル賞学者とか、熱血先生とか、水泳選手だとか、雑多な人々がよってたかって出した結論がお粗末だったのは記憶に新しい。 

 逆に、熱意を持った教師側が引っ張っていくスタイルの失敗もまた無惨に失敗している。有名な愛知管理教育がどういうものかは、もう30年も前に体験者が赤裸々に語っている。(内藤朝雄「〝熱中高校〟って何だ 愛知東郷高校で何がおこなわれているか」)体罰はし放題。校則は極限まで厳しくする。進学実績を上げるために、志望してもいない大学を受験させる。疑問を持った生徒が生徒会に立候補するのを妨害する。異分子はすぐ退学させる。 

 最近でも、愛知の某大企業が作った全寮制高校でガチガチの進学管理教育をやって、入学者が半減したとか。あるいは「教育再生会議」の某社長が理事長を務める高校でも、英検の不正事件が引き起こされた。事件後の対応が素晴らしい、なんてうがった意見もあるが、そもそも英検の成績を上げようと教師が不正の手伝いをする、という体質がおかしくはないか。結局、日本の企業家って「自由競争の精神」とか「次世代リーダー育成」とか、いろいろ口当たりの良いスローガンは出すけど、ほとんど日本の中に北朝鮮まがいの空間を作っているだけなのだ。どこが「自由経済」の旗手なのだろうか?。 

 かといって、生徒側の自主性を尊重しようとする左翼運動家の方法を取っても似たようなことが起こる。原武史は『滝山コミューン1974』の中で、日教組の全国生活指導協議会という団体の教師が、政治的手法で生徒の熱狂を煽り、結果的にどのように抑圧的な教育をしたか、克明に書いている。右でも左でも「理想の教育」を掲げる人間が、実際に教育を行うと、思想統制や洗脳に近いものとなってしまうのは、興味深い。 

 ここまで「理想の教育」の死屍累々たる様を見たら、外部の者が受け取るべき教訓は一つ。下手に外部から口を出してはいけない、ということではないだろうか? 効果が上がらなくても、進歩が遅々たるものに見えても、所詮人間の欲望や自然とは反する業務を行っているのだから、大目に見なくてはいけない。

 

 もう教育制度の議論は止めたらどうか、と思う。教育の実質は制度なんかで決まるものではない。教師と生徒/学生が顔をつきあわせて、個人対個人の間で思考のやりとりをするという中にしかないのだ。それを現場でやってみる。

 世の「教育制度改革」がだいたい失敗するのは、その具体的プロセスを無視して、結果を出そうとするからだ。だから英検の合格者数をあげようと不正をしたりする。だが、教育にはプロセスしかない。結果は後からついてくる。というより、結果を無視して熱中しなければ、結果は出ない。でないと、目的が自己の利益に偏り、徹底的に考える姿勢がなくなるからだ。自分の利益すら本当に大切なのか、と検討するのが、正当な理性の働きだ。

(「吉岡友治の三日坊主日記」2011.12.29. 一部割愛してあります)◆◆


 

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ssh496 冬休みが難しい [教育問題]

<2011>

 

 今年もあと2日ほどとなりました。毎年のことながら、年の瀬には気持ちの高揚する慌ただしさがあります。もちろんこんなことを言っていられるのは、私がたまたま年越し派遣村のお世話にならずに済む立場であるからですが。

 

 ところで。昭和天皇裕仁陛下が崩御した1989年、429日が「みどりの日」となり(のち「昭和の日」に改変)、新たに1223日が「天皇誕生日」として休日になりました。さらに2000年にハッピーマンデー構想によって、「成人の日」が115日から1月の第2月曜日となりました。

 どちらもその意義にケチをつける気はありません。

 けど、これは学校関係者にかなり頭の痛い宿題を毎年与えることとなりました。

 冬休み=年末年始休業の日程が、ものすごく立てにくくなったんです。

 

 冬休みってのは、だいたい1014日くらい取るのが学校経営上はちょうどいいんです。

 つまり、12月の2527日くらいからスタートして、1月の57日くらいに終わるのがいい。

 

 ところが。

 今上天皇明仁陛下の誕生日と、ハッピーマンデー成人の日は、このスケジュール編成にモロに干渉してきます。

 本年度の1223日は金曜日。完全週休2日制の現在では、2325日は3連休です。

 一方、2012年の「成人の日」は19日の月曜日。よって学校は79日が3連休です。

 すると。

 もし冬休みを1226日から16日までの12日間とすると、実際には1223日から19日までの18日間がすべてお休みとなってしまいます。子どもは嬉しいけど、学校運営上はちょっと長過ぎます。

 そうはさせじとすれば、どうなるか。

 12月に授業を入れるとすると、3連休明けの26日に入れることになります。でも、26日に入れると、3連休の後に1日だけ授業日を入れることになる。終業式の日は大体半日ですから、かなりバカバカしいお話になります。じゃあいっそと27日まで授業を入れるという手もあるにはありますが、ちょっと引っ張り過ぎな感じです。


 

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ssh471 クラス合唱は真の共生の場だ [教育問題]

<2011>

 

 今日、勤務校で合唱コンクールがありました。

 本校の合唱コンクールは年々レベルが上がっていて、少しくらい上手に唱っても入賞できない世界になってます。

 本校はコンクールに合わせて、授業公開も行っています。午前中の授業も、午後のコンクールも誰でも入れます。

 口コミなんでしょうか、コンクールを見に来る方が年々増えています。主に保護者の方だとは思いますが、今年はどのくらいいたでしょうか。

 

 コンクールそのものは、3年生が貫禄を見せつけてくれました。1・2年生もなかなかよく練習していて、きちんとした合唱になってはいたのですが、3年生は情熱が全然違う。特に上位のクラスは素晴らしい演奏でした。

 わがクラスもなかなかよく頑張りましたよ。当初は練習そのものがなかなかうまくいかなくて、仕切り役の生徒達がイライラしていたんですけど、途中からはよくやってました。練習前と練習後の差ということで測ってもらえればかなり上位だったはず(それほど最初はひどかったんですよ)。

 

 それにしても、合唱コンクールとか音楽会ってのは、クラスマッチや運動会とは違った感慨があります。

 以前、こんなことを書いたことがあります。

 

◆◆音楽会も運動会と同様に意義の深い教育活動です。音楽会も基本的には運営面が重要なんですが、運動会とはちょっと事情が違います。というのは、運動会の競技は、かけっこでコケてもビリになっても、玉入れで全然入らなくても、綱引きで一方的に負けても、別に構いません。競技結果は運動会の体裁を壊しません。

 音楽会の場合、演奏結果はかなり大事です。演奏は一応のレベルになっていないといけない。あまりヘタクソだと生徒は落胆してしまって、「成功体験」になりません。

 さらに、音楽会の場合、全員が走ったり綱を引いたりするわけではありません。合唱ならパートが違うし、伴奏の仕事をする生徒もいる。合奏は楽器の分担によって負担が全然違ってきます。

 運動会なら能の高いヤツが勝つだけですが、音楽会ではそういう単純な競走はできません。ステージに上がった生徒全員が、お互いの能を上手に活かして、全体としていい演奏をしないといけない。パートわけは、能力の違いを認め合うことです。その上で、能のあるヤツを増長させず、能のないヤツをいじけさせず、一人一人が練習で「うまくなった」と実感できるようにさせ、全体としていい演奏を作っていく。(ssh369 オナベポップ普及の黒幕は学校の音楽会?より)◆◆


 

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ssh468 大阪府のタレント弁護士知事とそのお友達の考える「ルールとマネジメント教育」を要約してみる〜ssh457の余白 [教育問題]

<2011>

 

 ssh457「もし大阪府のタレント弁護士知事が教育をルールとマネジメントだけで語れると思っていたら」はおかげ様で好評をいただき、多くの方々に読んで頂くことができました。にほんブログ村の人気記事ランキングでもカテゴリー第1位を獲得できました。感謝申し上げます。

 

 さて、そんな大阪府のそんな知事センセイとそのお友達の大阪維新の会の府議センセイ方ですが、ずいぶんと大胆な条例制定を画策しているようであります。

 以下がその条例案の前文。

 

  ◆◆大阪府における教育行政は、選挙を通じて民意を代表する議会及び首長と、教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校教職員を含む)が、法令に従ってともに役割を担い、協力し、補完し合うことによって初めて理想的に実現されうるものである。教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかったという不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない。

  教育の政治的中立性や教育委員会の独立性という概念は、従来、教育行政に政治は一切関与できないかのように認識され、その結果、教員組織と教育行政は聖域扱いされがちであった。しかし、教育の政治的中立性とは、本来、教育基本法(平成18年法律第120号)第14条に規定されているとおり、「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」などを行ってはならないとの趣旨であって、教員組織と教育行政に政治が関与できない、すなわち住民が一切の手出しをできないということではない。

  地方教育行政の組織及び運営に関する法律(昭和31年法律第162号)では、第23条及び第24条において、教育委員会と地方公共団体の長の職権権限の分担を規定し、教育委員会に広範な職務権限を与えている一方、第25条においては、教育委員会及び地方公共団体の長は、事務の管理・執行にあたって、「条例」に基づかなければならない旨を定めている。すなわち、議会が条例制定を通じて、教育行政に関与し、民意を反映することは、禁じられているどころか、法律上も明らかに予定されているのである。

  大阪府における現状は、府内学校の児童・生徒が十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。教育行政の主体が過去の教育を引きずり、時宜にかなった教育内容を実現しないとなれば、国際競争から取りのこされるのは自明である。

  我々は、我が国の未来を担う子供たちの適切な教育を受ける権利に対して責任を負うことを自覚し、この条例を制定する。◆◆

 

 さてさて、一体橋下センセイとそのお友達は、どんな教育を目指したいのでしょうか?

 この前文を要約してみると、それが見えてくるやも知れません。やってみましょう。読解トレーニングにもなるし。


 

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